ものぐさ女と奇跡の果実(或いは禁断の果実)

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「おい、起きてるか?……って、お前、また何か買ったな?」  私にとっては紛れもない朝。陽は真上から差し込み、私たちの暮らしを照らし、地は暖かな熱を帯びる。そういう頃合い、所謂昼、正午。この時間にはおよそ似つかわしくないであろう、目覚めを確認する声。しかし私の時間感覚には最適な言葉を発した彼女は、続け様に私の企みを看破した。 「ん、ああ、おはよう」 「おはよう。じゃなくて、質問に答えよ。何を買った?」 土砂崩れの跡のように折り重なった、乱雑な箱の堆積を一瞥し、その眼をそのまま私に向けて言い放つ。彼女は私の寝ぐらに乗り込んで数秒のうちに、私の過ぎ去った時間の痕跡を覗き見て、状況を把握したらしい。なんたる観察眼と洞察力か。感心すべきところなのか分からないし、そもそもそれは些末な問題なのだが。今の私には、眼前の彼女の冷ややかな視線を如何にして避け切るか、それこそが差し迫った問題だった。 「あー、うむむ、しかたない。着替えるから、ちょっとむこう向いてて」  選択したのは、先延ばしにしつつその先には正直な答えが待っているプランC。そもそもこれ以外の選択肢が彼女に通用するはずがないことを、私は痛いほど知っている。それでもなお、他の選択肢を用意してしまうのは私の悪癖だろうか。 「珍しい。外出もしないのにお前がわざわざ着替えるなんて。それに私とお前の間柄で恥ずかしがることもないだろうに」 予想外の返答だったのか、一瞬だけ、ほんの数ミリ瞼を開かせて、そしていつも通りに合点がいったというような表情で応えた。私もそれにいつもの調子の戯言で返す。 「いやいや、今から神聖な儀式を始めようというんだ。自分で言うのもなんだが、つまり珍しくちゃんとしようとしてるんだよ、私」 勿論、踏ん反り返り下々を見下すような振る舞いを添えて。 「反応した私が馬鹿だったよ。服、これだろ。さっさと着替えな」 「流石は私の母になってくれるかもしれなかった女だ。気が利くこと、この上ない」  再び冷ややかな視線を浴びせられるのは勘弁願いたかったので、戯言は程々に、着替えを済ませることにした。  昨日彼女が洗ってくれたいつもの服と、これまた彼女がクリーニングに出してくれていたいつものブランケットに身を包み、『神聖な儀式』に取り掛かる。 「今日、この素晴らしき日、私の口に、胃に入り、血肉となるものは––––」 「前置きはいいから」 調子を狂わされてしまったのが面白くなかったので、当て付けにわざとらしく渋々といった振る舞いで、ソレを取り出した。 「あ、はい。えっと、こちらです」 「ミラクルフルーツ?」 如何にも異国風、妙な彩色のパッケージに書かれた文字を、目を細めつつそのまま読み上げる彼女。それに寸分の間違いもないので、そのままに続ける。 「その通り。これがどういうものか知ってる?」 芝居掛かったテレビ通販番組のプロフェッショナルの体で、試すように問うてみた。 「ああ、何だっけ。味覚が変わる果物だか何かだっけか」 「何だ、知ってるのかよ」 少し面白くないが、いや、真の楽しみはこれからなのだ。間を置くことも惜しかったので、本題へと移る。正確には、私がこの企みの先にある至福の時を待ちきれないだけである。 「そう、このミラクルフルーツ、直訳すれば『奇跡の果実』。私の信頼する情報筋が言うに、コイツを食べれば、後に食べたものを甘く美味しく感じるようになるらしい」 「ふーん」 退屈そうに頬杖をつきながら、彼女は適当な相槌を打つ。 「で、その大層な『奇跡の果実』とやらの後に、何を食べるつもり?」 待ってました。その言葉。ならば教えてしんぜよう。 「ふふふ。これだよ」 取り出したるは、今ではなかなかお目にかかることの出来ない、元祖激辛スナック菓子。その名を 「暴君ハ○ネロ?」 如何にもな仰々しい赤のパッケージにでかでかと書かれたその名前を読み上げられ、お楽しみを先に言われてしまったが、その通り。暴君ハ○ネロこそが、この儀式を彩る、文字通り最高のスパイスなのである。 「しかしまあ、よくそんなもの手に入れられたな。それ、初期生産品だろ?ミラクルフルーツよりも大変だったんじゃないの?」 「うう、それは言わないでおくれ……」 「しかしだ、このミラクルフルーツの『奇跡』と、苦労して手に入れたコイツの辛さ、この二つが合わさったとき、どんな『奇跡』が待ち受けているのか、想像すれば居ても立っても居られないんだよ、私は」  彼女は黙って私を見る。もしかして羨ましいのか?おそらくその予想は外れているだろうし、むしろこの仕草は呆れているときのそれに近いが、今の私は誰であろうと止められない。止められてなるものか。それがよく見知った彼女であろうと。 「ああ、待ち受ける甘美よ、悦びよ。今まさに、『奇跡の果実』は禁断の喜びを齎す、『楽園の果実』となろう!」  大仰な口上を高らかに唄いあげて、早速口に運ぶ。 「それじゃあまずはミラクルフルーツから……いただきます」 うむ。これ自体には特に甘みも味もないらしい。 「聞いたところによると、どうもこれを食べるときは、舌全体に擦り付けるようにすると良いらしいんだ。まるで舌下投与みたいだよな」 「そう言う冗談、あんまり他所で言うなよ。お前、確実に疑われるから」 「はいはい。うん、こんなもんかな。それじゃあ次。ハ○ネロさん……いただきます––––」    次の瞬間、私の口内はマグマ煮え滾るマントルへと変貌を遂げた。 「な、何だコレ!?辛い!めっちゃ辛い!と言うより痛い!痛い!そうだ、コレは、痛いぞコレ!」 溶岩の海と化した舌から、吹き上がる火のように、辛さの波が押し寄せる。波とは我ながらよく言ったものだと思う。まさにそれには波があって、寄せては返すように–––– 「アッ、か、辛っ……辛い!痛い……!」 こんな具合なのだ。舌が真っ赤に腫れ上がっているのを感じる。「舌って赤くてプツプツしてて辛子明太子みたいだよな」などという、くだらない思考がぼんやりと脳ミソを埋めていくが、それもすぐに塗り替えられる。 「アーーーー!辛ッッッい!!本当に辛いわ!誰だよ、こんな劇物を食品として開発して、あろうことか販売しくさったのは!ひい、ふう……」 私の自慢の饒舌も、この火の海には耐えられないみたいだ。ひとまず呼吸を落ち着ける。  それが功を奏したのか、辛さとは違う波が、灼熱の舌を柔らかく浚っていく。 「あ、なんか美味しい」  突き刺す辛さで麻痺した舌に、動物性のものと思われる、食欲を掻き立てるような旨味が広がっていく。それは所謂スナック菓子にありがちな風味ではあったが、この熱を帯びた口内にとっては、この上ない安らぎ、そして至福であった。ただ残念なことに、これがミラクルフルーツの起こした『奇跡』でないことは、火を見るよりも明らかだった。何故ならば甘くないから。いや、甘さはあるのだが、それは糖分由来のものではなく、おそらくは旨味成分によるものであろう。  湧き出た汗が冷えていくに従い、私も平静を取り戻していく。  『奇跡の果実』は確かに『楽園の果実』ではあった。しかし齎したものは、その中でも『禁断の果実』と呼ばれるものだった。しかしながら、この結論は言い得て妙だなと感心してしまう。そう、これは私に与えられた罰なのだ。否、そもそも私は着替えようとするときに、わざわざ『恥じらう』などという素振りをしてみせた。つまり、これを食らおうと決めたその時点で、私は『禁断の果実を食べてしまったイヴ』になっていたのだろう。なんたる因果か。しかしその先にあったのは幸福であった。ささやかながら、間違いなくそれは幸福だった。私は原罪という衣服を脱ぎ捨て、次のステージへと進んだような幻想に身を委ねていた。 「水と牛乳、どっちが良い?」  私が落ち着く頃合いを見計らってか、彼女は声をかけ同時に手を差し出してきた。どこか蔑み笑っているかのようなその表情が些か気に食わないが、彼女が発した言葉が優しさから来るものであることくらいは、私にも理解ができた。更には彼女は私の返答を見越して、提案してきた二つの選択肢の内、一方しかその手には握られていなかった。どれだけ私を理解しているんだこの女は。 「ありがとうございます」 「どういたしまして」 笑顔で返すといえば聞こえは良いのだが、明らかにほくそ笑んでいる。悔しいことに、私は返す言葉を持ち合わせてはいない。体力も気力も消耗した為に丸くなった背のまま、未だ冷め切らない舌の痺れを受け取った冷たい牛乳で癒しつつ、上目遣いで彼女を見た。 「うん。知ってた」  今日いちばんの邪悪な笑みであった。 「ミラクルフルーツってのはね、あくまで味蕾が感じ取るもの、つまり味覚ね。そこに作用するわけで、例えば、とても酸味の強いものを甘く感じるようになるとか、そういう風に働くんだよ」 いつになく饒舌な彼女。その舌はまだ止まらない。いまの私のそれと取り替えてほしいと羨むほどに。 「対して、辛さっていうのはね、味覚じゃなくて痛覚が齎すものなんだよ。だからミラクルフルーツを食べたところで辛さはどうにもならない」 ああ、なるほど。理解ができた。 「しかしなあ、お前がミラクルフルーツと暴君ハバネロを取り出したときは、笑いを堪えるのに必死だったよ。あ、コイツ知らないんだなって思ったらさ、おかしくて。お前がなんか言ってるの、全然聞いてなかったし、それどころじゃなかった」 衝撃の事実がさらっと明らかにされたが、こちらもさらっと流すことにする。 「ああ、そういえば、確かにアレはまさしく『暴君』だったよ。あまりの辛さについ醜態を晒してしまったが、これからも自信を持って『暴君』を名乗っていってほしいとさえ思うよ。最後には案外優しい一面があることも分かったけど」  悪戯っぽい笑みを貼りつけたまま、しかし声色はいつもの落ち着いた調子で、本日の総括に移るべく、彼女は切り出した。 「で、結局どうだった?『楽園の果実』は?『禁断の果実』だとかなんとか、譫言みたいに言ってたけど」 「ああ、口に出してたのか、私。うん、コイツはまさしく『禁断の果実』だったよ。そして私はこれを食べるまでもなく、手に入れたそのときには、既にイヴになっていたんだ。アダムを誘ったように、お前を誘わなくて良かったと心から思うよ」  心からというのは誇張ではあるものの、本当にそう思っている。と付け足すと、彼女は咳払いのようにくすりと笑うと、形はそのままに口を開いた。 「そうか、そうか。ところでお前はこれを『禁断の果実』と呼んだわけだけど、だったらイヴたるお前を[[rb:唆 > そそのか]]した『蛇』も当然いるんだよな?」 予想外の問いに思わず仰け反りつつ、明後日の方向を見つつ答えた。久しぶりの談笑だった。 「あーー……うん、いるね。アイツだよ。お前もよく知ってる、アイツ」 「アイツか。なるほど。確かにアイツは蛇だな」 「うん。おまけに大酒飲み」 「蟒蛇だな」 「うん」 彼女の笑顔は、なぜだか今日一番の恐ろしさだった。
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