境界の怪物

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『境界の怪物』っていうのは僕がそう呼んでいるだけで、アレが何なのかは多分誰にもわからない。しかし名前は必要だろう?  鏡の中の怪物、現実との境界線に現れる怪物、だから境界の怪物。  顔を洗おうと洗面所の明かりをつけて、鏡の前に立ったとき、奴はそこにいた。  最初は驚きも騒ぎもせず、疑いもせず、目の錯覚、寝ぼけているのか、夢でも見ているのではないかと、そのくらいにしか思わなかった。しかしその考えは数秒後に裏切られてしまうことになる。  蛇口をひねり、勢いよく出た水を両手ですくい、顔についた泥を落とすように激しく顔を洗った。すぐには顔を上げずに目を瞑ったままいつもの場所に置いてあるタオルを手に取り、入念に顔についた水滴をふき取り、間違えようのない状態を作ってゆっくりと顔を上げた。  君にはそんなことできないだろうけど、僕にはそれができる。なぜなら僕はこうやって今まで生きてきたからね。  何者にも惑わされることなく、両の目と両の耳を使い、心穏やかにして何一つ見逃さず、聞き逃さない注意深さと論理的な思考、あらゆる可能性を否定しない想像力を僕は持ち合わせている。  それで僕の両目はしっかりと鏡に映りこんでいる化け物の姿を捉え、両の耳は「おい、おい、マジかよ」っていう、僕が発した声を耳にした。  何が起きたのかを説明する必要はないかもしれないけれど、あえて言わせてもらうよ。僕は目の前にいる、いや、目の前の鏡に映っている醜いバケモノが「おい、おい、マジかよ」と言葉を発するところを目撃し、僕の声を聞いたのさ。  そしてそいつはニヤニヤと不敵な笑みを浮かべながらこっちを眺めていやがる。そして次に僕がした事はもちろん、自分の顔を手で触る事。すると醜く爛れた様な気色の悪い手が鏡に映りこみ、卑しく不遜な顔をべたべたと触りやがる。  獣のような鋭い爪がシワだらけのくすんだ頬を引っかき、だらしなく開いた口から白い息を吐きながら笑っていやがるんだ。でもそいつの目は笑っていない。人を蔑むような目、罪深い目、何者にも従う事のない不敬な態度で僕をにらんでいやがる。 「ハローダークネス! 我が古き友よ」  僕は奴の声を聴いた。僕は何も言っていないのに!  僕は手を動かしていないのに!  奴は汚らわしい両方の手のひらを開いて、ピエロがするような挨拶を僕に向かってして見せた。  さすがに僕もそれには驚いたさ。  僕は最初、とうとう自分の気がふれてしまったのだと思った。悪い病気にかかってしまった。ストレスのあまり幻覚を見てしまっている。鏡の中に映る自分の姿が怪物に見えてしまう性質の悪い病に侵されてしまったが、それで人に迷惑をかけるようなこともないから、ストレスさえ何とかすれば医者にかかることもないだろうと、割と冷静に考えていたんだ。  奴が勝手にしゃべりだしたり、動き出したりするまではね。  さて、僕は困り果てた。  これじゃあ、ヒゲを剃ることもできやしない。歯磨きに鏡は必要ないし、ネクタイもしないから結び目が曲がっていないかと気にする事もないが、ヒゲ剃りはそうもいかない。  ネクタイも時には必要だが近い将来結婚式に呼ばれる予定もないし、葬式に出る予定も……、まぁ、こればっかりは『予想外』ってことはあったとしても、親族の中にお迎えが近い人がいるということもなかったからね。  君は、意外に思っているのかな。僕がこのような異常な事態についてまるで動じることなく、臆することなく冷静に考えている事に。  君とは歩んできた人生が違うしね。そもそも君は周りに無頓着だし、人に気を使うってことがないだろうし。いや、もちろん社会人としての最低のマナーは心得ているとは思うよ。でも、僕とは違う。  僕はね、真実なんてどうでもいいと思っているんだ。世の中、真実は一つだと信じて疑ってない人が多いようだけれども、真実なんてものは人の数だけあるくらいに僕は考えていてね。でも事実って奴はどうやっても一つしかないんだ。  だからこそ、事実に対して僕は従順なんだよ。強いて言えば“あったことをなかった事にはできない”というのが、僕にとっての真実なんだ。  目の前で起きた事について、事実だけをしっかりと把握することで物事の道理に従う術を得ることができる。そうすれば、選択肢を誤る可能性を極力下げる事ができるんだ。もちろんあんなおぞましいバケモノを見せられて、冷静でいられるわけはない。冷静でいられない僕を、僕は把握する事で次にどうするべきかを判断する事ができる。
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