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第28話 理解できない会話
振り向くと、本を抱えたポニーテールの少女が立っている。
しまったと思った。
少女を利用して目的を達成しようという話なんて、本人に聞かれていいものではないだろう。少女を不快にさせてしまったかもしれない。
「今までも、そういう考えで私に近寄ってくる方はいましたけど、じいちゃんはみんな追い払ってきましたから。無理だと思いますよ」
どことなく棘のある声。
とにかく一度謝ろうと口を開きかけたとき、お嬢様が立ち上がった。
「その本、パッサン卿の著書ね。私もよく読むわ」
「そうですけど」
少女の腕の中にある本は、よく見ればお嬢様の愛読書である緑の表紙の本だった。
「あなたはよく研究室に本を届けているようだけど、それもパッサン卿に頼まれて?」
「いいえ。これは私が読むんです」
え、と私は少女を見つめた。
あの本は私が読んでもよく分からない難しい内容がぎっしりと書かれている。十歳前後のこの少女が読んで理解できるものだろうか。
天才と名高いパッサン卿の孫もやはり天才、ということだろうか――。
お嬢様は目を丸めて、それからすこし嬉しそうに笑った。
「わたくしも、その本をはじめて読んだのはあなたと同じ歳の頃よ。あの時はさっぱり理解できなかった。やっと最近分かるようになったわ。幸か不幸か、読書をする時間はたくさんあったから。他の研究者の本もたくさん読んだけれど、パッサン卿のものが一番理にかなっていると思うわ」
「どんな本を読まれているんですか?」
試すような少女の目。お嬢様はそうねと呟いた。
「経済論なんかは興味深かったわね。南部地方の税収改革については、パッサン卿の論を根底にしているでしょう。実際、改革してからは税収も安定しているようだし、成果もきちんと出ているわ」
その後も卿の論文についてよどみなく話すお嬢様だが、私にはさっぱり理解できない。だが、少女には通じているようで、「お世辞ではないようですね」と呟いた。
お嬢様は小さく微笑む。
「あなたはとても勉強熱心なのね。他の研究者の本も読んでいるかしら?」
お嬢様は研究者や哲学者の名前を羅列する。最初のうちは私でも知っている有名な名前だったが、どんどんとマイナーになっているようだった。それでも少女は頷きながら話を聞いている。
私にとって聞き覚えのない名前ばかりになった頃には、二人ともすっかり意気投合しているようだった。
「その歳でこれだけの知識があるなんて素晴らしいわ。うちのリーフなんて頭が真っ白になっているのに」
「面目ないです――」
私はそれだけ言って目を逸らした。主人の話についていけないのは悔しい。年齢云々というつもりはないが、目の前の幼い少女に通じる話を私が理解できないのは嫌だった。今度からはもう少し本を読むようにしよう。
お嬢様はさて、と少女に向き直った。
「わたくしは、たしかにあなたと親しくなればパッサン卿にも縁ができるかもしれないと思っているわ。でも今、あなた自身にも興味が湧いたし、親しくなりたいと思いました。だからまた、ここに来てもいいかしら?」
少女はぱちくりと眼鏡の奥の目を瞬いた。
「そうですか。――うん、いいですよ。じいちゃんを懐柔できるかは知りませんけど、私もあなたと話すのは楽しいと思うから。またお話しましょう」
「ありがとう」
お嬢様は微笑む。
「それでは改めて。わたくしはレイチェル・バルド。こちらは使用人のリーフ・カインツ」
お嬢様の紹介にあわせて、私はあわてて一礼をした。私の把握できない会話で、とんとん拍子に話が進んでしまった。いい方向に進んでいることは間違いないのだが、自分だけ置いてけぼりをくらっているようだ。
それに、お嬢様がここまで行動的なことに驚かされた。少女とは似た者同士のようだから臆せずものが言えるのだろうか――。
少女も机に本をおくと、黒いスカートの裾をつまんでお辞儀をする。
「エマ・リアルと申します」
少女、改めエマは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
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