第45話 深緑の芸術家

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第45話 深緑の芸術家

 茶会の会場に戻ると、一足先に会場に入っていた王子の周りに人だかりができていた。ライラ様と会話をしている様子がみえる。  あの二人が並ぶと神々しさが増すのが遠目でも分かった。あそこだけ俗世とは別の清廉な空気が流れているようだ。他の令嬢たちも近づくことができず、遠慮したように一歩引いているらしい。 「王子も、あんなに囲まれたらそりゃあ疲れちゃいますよね。茶会が苦手だっていうのも分かります」 「そうね」  マリーと耳打ちしあっていると、急に入口あたりが騒がしくなった。みると、弦楽器をもった楽器隊が登場している。余興が始まるらしい。  だがただの余興にしては、人々のざわめきが大きかった。 「ねえ、あのお方――」  貴族令嬢たちがひそひそと囁き合っているのが聞こえてくる。令嬢たちの注目を集めているのは、中央でヴァイオリンを構えている人のようだ。その人だけ容姿というかオーラというか――、とにかくひときわ目立っていた。  すらりとした長身。長い深緑色の髪は右側にゆるく流している。ヴァイオリンを構えるその姿だけで絵になる人だった。 「ディーテ様ではないでしょうか?」  令嬢が口にした名前を聞いてしまうと、騒がしくなるのも頷けた。  ふっと空気が引き締まったかと思えば、始まる演奏。緑の麗人、ディーテのヴァイオリンを中心においた楽曲だ。はじめの一音から、心臓を捕まれるような音色だった。  その場にいた全員が自分の呼吸音さえ演奏の邪魔だというように、息をひそめて音色に聞き入っている。  穏やかに、ときに激しく。ディーテの細い指から紡がれる音は心の深いところに直接訴えかけてくるようだった。  無心で聞き入っていたため、一曲はあまりにも早く終わってしまった。  音楽が終わってからも私たちは動くことができず、少しの間をおいてやっとのこと意識を取り戻した誰かが拍手をはじめる。拍手は伝染していき、やがて全員が手を打ち鳴らしていた。 「すごい、こんなところで彼の音楽が聴けるなんて思わなかったわ――」  今ヴァイオリンを弾いているディーテという人物は有名な芸術家だ。  もともとは各国を渡り歩いていたようで、数年前にこの地にやってきた。どこの国でも王族に気に入られるほどの実力で、この国でもすぐに宮廷や各貴族から声がかかったという。  ただし、彼は気まぐれで、貴族たちの要請に応えるのはまれだと専らの噂になっている。だからこそ、彼の芸術にはより一層の希少価値がつけられているのだ。  まさか、茶会の場でその貴重な彼の音楽を聴けるとは思わなかった。  ディーテの周囲はすっかり人で取り囲まれている。 「もう演奏は終わりなんでしょうか。一曲しか聴けなかったですね」  マリーが残念そうに呟く。楽器隊は早々に引き上げるようだ。  ディーテはその長身を折り曲げて挨拶をし、観客の声に応えるようにゆっくりと周囲を見渡した。私たちも拍手をしながら、その姿を眺める。すると、辺りを見回していたディーテとぱちりと目があった気がした。  気のせいだろうかと首を傾げる。しかしディーテは顔を固定させてじっとこちらをみている。  気のせいではない――?  やがて、ディーテはその長い足を存分に活かして大股で歩き出した。段々と距離が近づく。周囲が何事かとざわめいた。  隣でマリーも困惑したように視線をうろつかせている。  ついにディーテが目の前までくると、彼はじっと私を覗き込んだ。 「あの、何か――?」  ひっくり返りそうな声をなんとか発して、私もディーテを見返した。  髪が絹糸のようとはこのことだろう。睫毛が長い。瞳は髪と同じ深緑で、吸い込まれそうな色をしていた。肌は白いし、体も骨ばったところなんてなくて、しなやかで美しい。  彼は、まじまじと私をみたあと。 「不思議な音をお持ちですね」  落ち着いた声でそう言った。 「はい――?」 「お名前は?」 「り、リーフ・カインツと申します」 「そう。それではリーフ、お暇な時があれば私のアトリエにお越しください。歓迎しましょう」  どういうことかと聞き返す間もなく、それではと謎の芸術家はざわめきを残して去っていった。
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