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第3話 朝の支度
かつては人々が羨んだレイチェルお嬢様。
今やこの屋敷に、私とマリーだけを側におき隠れるように暮らす身だ。
「お嬢様、本日は本館に呼ばれていたはずですが、いかがいたしましょう」
「わたくしは行かないわ。リーフ、あなたが代わりに行ってきて」
「ですがお嬢様、せっかくの旦那様からのお声がけですし」
「行きたくないわ。――お父様も、わたくしには会いたくないでしょう」
そういうと、お嬢様は目を伏せた。マリーが心配そうにお嬢様を見守る。
部屋の空気が突然悪くなってしまったことに、申し訳なさがこみ上げた。
「失礼いたしました。本館には私が行ってきますね」
「ええ、お願い」
なんとか笑顔で取り繕うと、お嬢様は頷いた。
ドレスを身にまとうと、窓辺の椅子に腰をかける。椅子の上には読みかけの古い本がのっていた。緑の表紙のその本は、もう何回もお嬢様が読み返している愛読書だ。小難しい内容で、私にはその面白さは分からない。
カスミソウの押し花で作られた栞が挟んであるページをそっと開く。
「昼まで本を読むわ。あなたたちも自由にしていなさい」
「かしこまりました」
私とマリーは扉の前で一礼する。
部屋を出る前にお嬢様の様子を伺うと、椅子に座って窓の外をみていた。その姿は寂しそうで何か声をかけようかとも思ったが、何を言うべきか分からなくて、そのまま部屋をあとにした。
廊下の角を曲がってお嬢様の部屋が見えなくなると、マリーは溜息をつく。
「お嬢様にまたお散歩断られてしまいました」
お嬢様のしていたように、窓の外を見つめる。
美しい庭園。その庭園の木々に阻まれてよく見えないが、その向こうにはこの別館よりも広くて美しいバルド家の本館がある。
「やっぱりお嬢様、本館にはまだ行きたくないんですね」
「そうね――、昔に比べたら随分とよくはなったのだけれど」
はい、とマリーは表情を曇らせる。
私はそんなマリーの頬を軽くつねった。ティーセットの載ったトレーで両手が塞がっている彼女は抵抗ができず、もごもごと声にならない抗議の声を上げた。
「そんな顔をしていては駄目よ。マリーが笑っていないと、ますますこの別館が暗くなってしまうわ。あなたは元気だけが取り柄でしょう」
「リーフしゃん――、もう、他にもいっぱい取り柄はありますよー、酷いです」
「冗談よ。あなたのいいところはたくさん知っているわ」
頬をはなしてやるとふんっと鼻を鳴らしたが、すぐにおかしそうに笑いだす。こういうコロコロと変わる表情を見るのは楽しい。
「この別館で私は元気いっぱいな笑顔担当ですもんね。分かっていますよ。私の笑顔で、お嬢様のことも元気にしてみせます! 昔みたいにお嬢様が笑ってくださいますように」
「ええ。今日も一日頑張りましょう」
「はい!」
小さな体にやる気をみなぎらせるマリーが可愛らしくて、私はその頭を撫でた。
「もう、リーフさんってば、また私のこと子ども扱いする。近所のおばあちゃんみたいですよ」
「おばあちゃん――」
マリーの言葉に頬が引きつる。
私とマリーは廊下の端で別れた。マリーはティーセットを片付けに調理場へ。私は別館を出て、少し離れた本館へと歩いていく。
――私も、本館にはあまり行きたくないのだけど。
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