第58話 戯れのピアノ

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第58話 戯れのピアノ

 ディーはアトリエの部屋を次々に公開した。作りかけの作品をみられるというのも貴重なものだ。風景画から人物画、女神をかたどった彫刻――、多才すぎて恐ろしささえ感じる。 「ああ、そうだ、新曲がそろそろ完成しそうなんです。一度聴いていただけますか」  ピアノが置かれている部屋に来た時、ディーはそう言った。私とお嬢様は顔を見合わせる。  私たちがディーのもとを訪れる期間は新曲が完成するまで。もうその期間の終了が迫ってきているということだ。 「なにか一つ欠片が足りなくて、まだ完成とは言えないのですが。ヴァイオリンは寝室に置いてあるので取ってきますね。少し待っていてください。ここの楽器は好きに触ってもらって構いませんから」  物珍しそうに楽器を眺めるレオンにそう言って、ディーは寝室へと向かっていった。 「彼はお嬢様の指導役を受けてくださるでしょうか」 「どうかしらね。でも、ここでディーの姿をみていると色々学ぶことがあったわ。あれだけ素晴らしいお手本を間近で見られただけでも、いい稽古になる」  お嬢様は柔らかく微笑んだ。 「わたくしはずっとダンスは決められたステップの通りに、音楽は楽譜の通りに機械的にしてきたけれど、ディーみたいに心から楽しもうと思うと表現の幅も広がった気がするの。それを知れただけでも、よかったと思うわ」  レオンは恐る恐るといった調子でピアノの鍵盤に人差し指をのせた。ぽろんと一音が鳴る。 「おお、すごい」 「ピアノ見るのはじめて?」 「街ではピアノに触る機会なんてありませんから」  レオンとエマはピアノの前でたわむれている。お嬢様が二人に歩み寄ると、エマが「そうだ」と手を打ち鳴らした。 「レイチェル様、連弾しませんか」 「あら、いいわよ。それなら、レオンも一緒に弾いてみる?」 「え、僕はピアノなんて弾けないですよ!」  一音だけ弾いてくれればいいわ、とお嬢様がレオンの指を鍵盤に乗せる。少しだけレクチャーをしてから、お嬢様とエマは鍵盤に手を乗せた。  奏でるのはこの国でピアノを習い始めた子どもが弾くポピュラーな曲。簡単なメロディーが繰り返される。流れるように奏でるお嬢様とエマの演奏に、戸惑いながらレオンの一音が加わる。  三人はくすくすと笑いながら、メロディーを重ねた。ときどきお嬢様がゆるやかにアレンジをしたり、エマがテンポをあげたり――、気ままに自由な演奏をしていた。 「楽しそうですね」  いつの間にかヴァイオリンを持って戻ってきたディーは三人を眩しそうに見つめた。 「まるで三人、仲のいい兄妹のようです」 「ええ、本当に」  思わず頬がゆるむ。しかし、それと同時に少しだけ悲しくなった。  レイチェルお嬢様とライラ様も、こんな風に一緒に過ごすことができたらどれだけよかっただろうか。  これから、そういう未来が作れるだろうか。  三人の演奏が終わると、ディーは拍手を送った。 「とても素敵な演奏でした。――ああ、皆さんの演奏を聞いていたらいいメロディーが浮かびました」  私たちが見守る中、ディーは幸せそうに微笑んだ。 「これで私の曲も完成しそうです。聴いていただけますか」  そう言って、ヴァイオリンを構えた姿は美しかった。
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