第9章 はなむけ

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厨房から煮炊きする良い香りが漂ってくる。 廊下まで漂い出てくるその匂いを辿るように、莉堵は厨房までの道を歩いて行く。 明日にはここを出て行くのかと思うと、何というかやはり寂しい気持ちになる。 覗いた厨房は、少し早めの夕食準備が始まっていて、もう既に慌ただしい空気が漂っていた。 先日の宴の日のような気合いの入り様に、莉堵は首を傾げながら厨房内に足を踏み入れた。 「莉堵様は、今日の手伝いは要りませんからな!」 途端に返ってきた声は、涸駝斐(こだい)のものだ。 「分かったわ、でも久樹李の・・・」 「くず坊のは、こっちで作ってますから。」 言い掛けた途端に奥から遮られて、そちらを見ると、久樹李のお気に入りの栗の甘露煮が作られている。 久樹李とも明日お別れになるから、教えて貰った栗の甘露煮を莉堵が作ってあげようと思っていた。 「今日は莉堵様はお手出し厳禁です。こちらで召し上がって頂く最後の夕食ですから、皆気合いが入っております。邪魔ですから、出て行って頂くか、隅っこで見ていて下さい。」 涸駝斐のぶっきら棒だが優しい言葉に、莉堵はふっと笑って厨房の邪魔にならない辺りに寄る。 今日の夕食は、小鮎と木の実の甘露煮、山鳥の吸い物に、紅白に染め抜いた酢漬け蓮根、山ごぼうの漬物、しめじご飯、松茸の茶碗蒸し、蕗とぜんまいの炊き合わせ、舞茸の天ぷら、冬瓜のそぼろ餡掛け等、かなりの品数が作られているようだった。 厨房の片隅で腰掛けてその様子を眺めていると、出汁やお醤油、焼けた食材の匂いが漂ってくる。 バタバタと忙しく動き回る料理人達と騒つく厨房に時折音高く調理の音が響く。 慣れ親しんだその音に、心が穏やかになる。 先のことを考えると、不安なことだらけだ。 それでも、もうご飯も食べられない程落ち込むのは止めようと心に誓った。 「莉堵様。」 ぼおっとそんなことを考えていた所為で、目の前に涸駝斐が立っているのに気付かなかった。 慌てて目を上げると、穏やかに微笑んだ涸駝斐が紙の束を握って見下ろしていた。 「どうぞこちらをお持ちになって下さい。」 差し出してきたのは、紙を束ねて紐で閉じたものだ。 ぱらりとめくってみると、食材の下処理の方法や調理方法、調味料のこと、どんな料理に向いているかなど、細かく書き付けがある。 分厚い束になった冊子は、涸駝斐が長い事掛けて書き綴ってきたものなのだろう。 「でも、これ。」 慌てて目を上げた莉堵に、涸駝斐は優しく頷き掛けてくる。 「もう、中身は私の頭の中に入っているものばかりですから。」 穏やかな涸駝斐の言葉に、莉堵は目頭が熱くなるような気がした。 「貴女様には、何をお持ち頂こうかずっと考えておりましたが、作ったものでは長持ちしませんからな。貴女なら、これを差し上げればご自分でお作りになれるでしょう?」 涸駝斐のその言葉に、莉堵は滲んだ涙を拭う。 「ありがと。」 言葉が続かなくて、ただ何度も頭を下げる。 「これから、色々と大変なこともお有りになると思いますが、これを開いて涸駝斐がご飯くらいちゃんと召し上がって下さいよって言ってるのを思い出して下さい。」 「うん。・・・そうする。ここの料理が恋しくて仕方なくなったら、こっそり宮廷の厨房に入り込んで作ってみるね。」 それに、涸駝斐が何とも言えない顔になってから、ぷっと吹き出した。 「是非、そうしてやって下さい。宮廷料理人達が真っ青になるのが見てみたい。・・・と、私が言ったことはご内密に。」 声を潜めてそう言った涸駝斐に、莉堵も涙の滲んだ顔で微笑み返した。
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