第7章 樹の国で秋の味覚

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横笛を口から離すと、微妙に安堵したような溜息が聞こえてきた。 「楽器で何とか形に出来そうなのは、これだけですわね。」 国主の正妃 枝磨(しま)が漏らした言葉に、居合わせた清梛(すな)根郡須(ねぐす)も頷いている。 それに、莉堵はさっと目を逸らした。 楽器の演奏は、乃呼(のこ)にもかなりしつこく教育されたが、どうにも得意ではなかった。 その中で、唯一及第点を貰えたのが、やはり横笛だ。 そこで乃呼には完全に諦められてしまったが、都の皇帝の目に触れても触りがないように、となるとここからまた厳しい再教育が始まりそうだった。 「お料理も得意でいらっしゃいますのに。」 清梛からの少し残念そうな言葉に、苦笑が浮かぶ。 「料理長の涸駝斐(こだい)が、物凄く器用で相当出来るって舌を巻いてたからな。」 根郡須からの褒め言葉に、くすぐったい気分になる。 「暇を見付けて、お供に毎日一品作ってやってるそうだが、残りを厨房の賄いで出してるらしいが、好評だそうだ。」 「まあ、私もご馳走になりたいですわ。」 清梛に可愛らしく言われて、莉堵はまた嬉しいような恥ずかしいような気分になる。 「私のお料理は、料理人さん達が作るようなきちんとしたものではありませんから。でも、作るのは大好きで。」 流石に、樹の国の国主の身内に、幼い頃地の国の厨房で育ったからとは言えない。 「俺も食べてみたいな。涸駝斐に俺と清梛の食卓だけにでも何とかならないか聞いてみるか。」 根郡須が言い出して、莉堵としては嬉しい半分、緊張するような気分半分で、焦ってしまう。 「あら、それなら私だって頂きたいですわ。」 枝磨までそんなことを言い出して、莉堵は追い込まれたような気分になる。 料理というのは、作り上げることも大事だが、食べて喜んで貰うのもその内だ。 折角気合いを入れて作った料理なら、食べて誰かが喜んでくれるなら、それに越した事はない。 「涸駝斐さんと相談してみますね。」 莉堵としては、無難にそう逃げて、その話しを打ち切った。 「では、笛の方に戻りましょうか。もう一度吹いてみせて下さいませ。」 枝磨に促されて、莉堵は横笛を持ち上げた。 国主の正妃枝磨は、都の上級官吏の家の出で、楽器類全般の演奏に秀でているのだそうだ。 そこで、楽器の演奏について烝榴宜(むるぎ)は枝磨に教育を任せることにしたようだ。 因みに根郡須の正妻清梛は、皇帝の縁戚に当たる由緒正しい家の出で、彼女からは、都の女性達の様子や交流のコツなど細かな事を日常から学ぶことになっている。 一度は、莉堵を妻の一人にと言い寄っていた根郡須だが、清梛との関係は良好なようで、ここへ来てからは彼はそんな素振りは全く見せなかった。 だが、話しによると、この城の中に根郡須の妻扱いの者が他に数人暮らしているのだそうだ。 清梛はそれに溜息を吐くが、諦めているような素振りで、どうこうしようというつもりは無いようだ。 沢山の父親の妃達の間で、母親や自分が苦労した記憶のある莉堵としては、当たり前のように妻を沢山待つ男性というのは、どうも好きになれない。 まだ若い夫の渡津依が、どういう考えの持ち主かは分からないが、もしもまだ莉堵が彼の妻でいられたとして、将来彼が自分以外の誰かを迎えることに耐えられるのか分からない。 もっと言えば、もしかして莉堵が皇帝の後宮に迎えられるようなことにでもなれば、そんなことを言っていられる場合ではないのだろう。 伝え聞く話しによると、34歳の皇帝の周りには、既に沢山の妃やその候補達がおり、子供も幾人もいるのだという。 そんな中に割り込んで行きたいとは全く思えなかったが、逆にそれなら皇帝の目になど止まる筈がないと楽観出来るような気もしてきた。 綺麗に着飾った女性達に囲まれた皇帝なら、中途半端で教養も今一な莉堵など相手にもしないだろう。 埜州示(のすじ)には悪いが、段々気持ちが楽になって、肩から力が抜けてきた。 楽器演奏の時間の最後には、伸びやかな莉堵の演奏史上一番なくらいの出来で終わった。 「まあ、これなら。仮にどなたかと合奏などということになっても、遜色なく終えられるでしょう。」 枝磨からのお墨付きも出て、莉堵はほっとした。
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