第8章 寂寥と儚想の音

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昼食前の厨房は、戦場のような慌ただしさだった。 「莉堵様! 流石にそれは駄目だ!」 涸駝斐(こだい)の悲鳴のような声が上がる。 「良いから! 今はここが一番手薄でしょ!」 猛然と洗い物を始めた莉堵に気付いた涸駝斐が止めてきたが、言い返して手を止めないことにする。 今日の厨房ではちょっとした不測の出来事があり、盛り付けまで済んでいた小鉢を作り直すことになってしまった。 その為、小鉢を洗い直す必要があったのだ。 だが、料理人達は作り直しの料理にかかり切りで小鉢を洗う暇がない。 といって、昼食まで時間もぎりぎりだった。 いつもなら、涸駝斐が絶対に嫌がるだろうから、洗い物まで手を出さないようにしていた莉堵だが、流石に見兼ねてしまった。 「いいえ、駄目です! 何とかしますから、止めてください! こんなことが国主様の耳にでも入ったら、我々の首が飛ぶ!」 「黙っとけば、バレる筈ないわ! それでも漏れたら、気付いたら勝手に洗い終わってましたって言って!」 小鉢は数十個だ、直ぐに洗い終わる。 涸駝斐は別の作業をしながら、頭を抱えたいのを我慢しているような顔になっていた。 程なく洗い終えた莉堵は、布巾で小鉢を拭いていく。 と、その布巾を途中から涸駝斐に取り上げられた。 「莉堵様、貴女何者だ? 国主のお姫様が、ここまで厨房仕事を卒なく熟せる筈がない。これは趣味とか好きでとかいう程度の話しじゃない。」 涸駝斐の口調は、少し厳しくなる。 莉堵はその涸駝斐に真っ直ぐ目を向ける。 「趣味です! ここだけの話しだけれど、私は小さい頃、地の国の宮城の厨房に入り浸っていたことがあるの。流石にお姫様として駄目だろうってことで引き離されて久しいけれど。」 少しだけ声を落として言い切った莉堵に、涸駝斐は溜息を吐いた。 「虎の子が有り得ないくらい懐いていて、お姫様としては有り得ないくらい料理が出来て。そんなお姫様が都に登る。国主様のお考えは分からないが、とてもじゃないが、貴女に都の空気が相応しいとは思えませんな。」 苦い口調の涸駝斐に、莉堵も同意したいところだ。 「折角、色々教えて頂いたけれど、役に立つ間もないかもしれないわね。」 それに涸駝斐は肩を竦めた。 「さて、後は何とかしますから、莉堵様はお戻りになって下さい。」 きっぱりと言い切る涸駝斐に、今度は莉堵が肩を竦めてみせた。 「また、来ても良いわよね?」 小さく躊躇いがちに訊いてみると、涸駝斐は片眉を上げた。 「構いませんが、これは駄目です。絶対に!」 布巾と流し台を指して言った涸駝斐に、莉堵は苦笑いで頷いた。 莉堵が樹の国の宮城に来てから、半月程が経つ。 その間に、これでもかというくらい女性達に色々な作法などを詰め込まれたが、莉堵が厨房に通うことは黙認して貰えた。 来た当初の物も食べられない状態から、厨房に通うようになってから回復したことが一因なのだろう。 莉堵と一緒に都に行くことになる氷刃も、身体が日々成長して行く傍ら、毎日厳しく躾けられて、人の言う事を聞くようになっているようだ。 但し、莉堵に対してだけは、出会った時から変わらない懐きぶりで、ひたすら甘えて囲い込もうとする。 莉堵としても可愛くて仕方ないが、もし莉堵が献上品として要らないと皇帝に判断されれば、氷刃とは別れることになってしまう。 それだけは、何やら寂しいような気がした。 昼食の席に向かうべく廊下を歩いていた莉堵は、根郡須が歩いてくるのに行き合った。 「ああ、莉堵。丁度探していたんだ。」 根郡須が話し掛けてきて、莉堵は足を止める。 「ここへ来たばっかりの頃に、海の国の元締めに手紙を書いただろ?」 莉堵ははっとして根郡須に改まった顔を向けた。 返事が返ってきたのだろうか。 少し緊張した面持ちで待っていると、根郡須が微妙な顔になった。 その様子に、莉堵は小さく顔を顰めて待つ。 「あのな。届けさせた者が帰ってきたんだが、元締めには会えなかったようなんだ。返事を貰って来るようにと言い付けておいたんだが、仕方なく家人に手紙を託けることになったと。」 渡津依は何か忙しくしていたのだろうか。 不安な顔になった莉堵に、根郡須が小さく溜息を吐いてきた。 「莉堵。お前が氷刃と一緒に皇帝に献上される名目は聞いているか?」 少しだけ声を絞った根郡須に、莉堵は首を振る。 「皇帝陛下の御生誕祝いが二月後だ。その祝いの品として、毎年各国が献上品を差し上げる訳だが。今年は陛下が35歳の節目となる年で、各国がいつもよりも気合いの入った献上品を用意している。」 成る程と莉堵は頷く。 「つまり、それを届けるのも国主自らが出向く国が殆どだ。・・・で、国主のいない海の国は、代表者として元締めが都に向けてもう旅立った後だったようなのだ。」 莉堵は、心臓がどきりとするような気がした。 「元締めは、多分地の国から莉堵との離縁の話しも聞いていないだろうし。お前からの手紙も見れなかったとなると、お前が皇帝陛下に献上されることを知らないまま、都に入る可能性が高い。」 莉堵は眉を顰めた。 莉堵が向かう都に、渡津依も来る。 だが、その渡津依は莉堵が都に来ることも、皇帝に献上されることも知らない。 知った渡津依は、どう思うだろうか。 少なくとも、樹の国を出る前に、渡津依の意向を確かめて、彼にその気があれば取り戻して貰うという手段は断たれた。 このまま、都に向かうしかない。 根郡須が真面目な顔で、こちらを窺うように覗き込んでくる。 また、莉堵が以前のように塞ぎ込むことを心配しているのかもしれない。 確かに、この知らせは最悪だったが、自分の気持ちが固まった今、出来る手は打って、後は祈るしかないという境地になっている。 「都で、皇帝陛下の元に向かう前に、渡津依様に会うか連絡を取ることは可能でしょうか?」 冷静にそう返すと、根郡須が少し驚いたような顔になった。 「ああ。何とかなるように努力してみよう。」 根郡須としても、不確定な状況に、はっきりとは言及出来なかったのだろう。 「この半月で、色々覚悟は出来てます。皇帝陛下に気に入られない自信もあります。ご不興を買わない程度に躱して、宮を出る許可を貰えるように頑張ります。・・・ただ、渡津依様には、私が宮を出るまで待っていて欲しいと、お伝えしたいんです。」 根郡須に告げると、彼は小さく顔を歪めた。 「そうか、分かった。・・・何というか、本気で元締めが羨ましくなってきたな。お前みたいに真っ直ぐな娘に、一途に想われて。」 その根郡須の言葉に、莉堵は恥ずかしくなって、顔に熱が集まる。 その莉堵の様子に、根郡須がどこか呆れたような溜息を吐いたようだった。
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