第8章 寂寥と儚想の音

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ぐんと寒さが増し始めたこの頃、氷刃の毛が硬めのしっかりとした冬毛に生え変わっていく。 抜け毛の多くなった氷刃に包まれると、莉堵も毛だらけになってしまって、付き添ってくれた艿音(じね)にも顔を顰められてしまった。 「莉堵様。お召し物が酷いことに。抜け毛がましになるまで、氷刃に近付くのはおやめになれませんか?」 後で着物から毛を取る作業が大変なのだろう。 「そうね。氷刃には可哀想だけど、檻越しに会いに来ることにするしかないかしら。」 苦笑気味にそう口にする莉堵に、調教師の座惟摘(ざいつ)が近付いてくる。 「是非、そうなさった方が良い。貴女は氷刃に寄り過ぎる。それは氷刃にも貴女にも良くない。」 そう声を掛けてきた座惟摘の言葉には、深い意味がありそうなのだが、よく分からない。 「どうして?」 問い返した莉堵に、座惟摘はちらりとこちらに目を向けた。 「氷刃は、皇帝陛下への献上品であり、貴女のものではないから、ですね。」 敢えてそう口にした意味が分からなくて、莉堵は首を傾げる。 氷刃と莉堵は一緒に皇帝陛下に献上されるのだから、敢えてそれを分ける必要があるのか分からない。 確かに、莉堵が皇帝陛下の宮を出ることになったら、今の言葉はその通りということにもなるが、座惟摘が言うのは、そういう意味ではないような気がする。 「さて、それでは氷刃の毛を梳いてやろうと思いますので、離れて頂けますか?」 座惟摘は、莉堵と氷刃の今の関係が不満なのだろうか。 先日、座惟摘が口にした野の国の一ノ姫という言葉も気になる。 今は亡き野の国のことは、莉堵には良く分からない。 周りにも野の国のことを訊ける者は居なかったから、母親のことも正直余り良く知らないのだ。 これまで生きてきた中で、必要とされる知識でも無かったので、知ろうとしたこともない。 莉堵は梳き櫛を持ってきた座惟摘を見て、氷刃から離れる。 途端に艿音が寄ってきて氷刃の毛を払い始めた。 「氷刃の生え替わりが終わるまでこんな風なら、氷刃の梳き櫛のように付いた毛を取る道具が欲しいですわね。」 艿音が呆れたようにそう言い出して、莉堵は申し訳なくて肩を縮める。 「莉堵姉さん!」 木の葉を舞い上げる風と共に久樹李(くずり)が走ってくる。 いつも通り遠慮なく、莉堵に抱き付いてきた久樹李を受け止めた莉堵は、毛梳きをされていた氷刃が小さく唸ったのに気付いた。 「氷刃。」 座惟摘の宥めるような声が掛かって、直ぐに氷刃は唸るのを止めたが、ジロリと睨むような目が莉堵に抱き付く久樹李に向けられている。 「あら、氷刃の焼きもちですかしら。」 艿音の呆れたような言葉に、莉堵は肩を竦めてみせたが、座惟摘の顔も氷刃に劣らない程、何故か不機嫌そうに見えた。 「莉堵姉さん、僕やっぱり虎の子は苦手。」 腕の中からちらりと氷刃を覗き見た久樹李が、ぽつりと呟く。 莉堵はその久樹李の頭を撫でてあげながら、ふうと溜息を吐く。 「氷刃は鋭いのよ、きっと。維矢留(いしる)も近付くと唸られていたから。」 小さくそう告げると、久樹李は納得したように頷いた。 「そいつも連れて行くつもりですか?」 座惟摘が冷ややかな口調で割って入る。 驚いてそちらを向いた莉堵の視線の先で、座惟摘は氷刃の毛梳きを続けながら、こちらを見もせずに問い掛けたようだった。 「氷刃が、嫌がるから駄目っていうこと? 元から連れて行くつもりはなかったけれど。」 何というか、座惟摘の時々みせる莉堵に対するよく分からない厳しさが、どういう事なのか、確かめてみたくなる。 それに、座惟摘は溜息を吐いただけで答えて来なかった。 「ねぇ、やっぱり付いて行っちゃ駄目なの?」 久樹李がそう言い出して、莉堵は久樹李に視線を移す。 「駄目。久樹李はお母さんのところへ帰りなさい。」 きっぱりと言うと、久樹李が少し拗ねたように口を尖らせた。 莉堵は眉を下げて、その久樹李の頭を撫でる。 「有難うね、久樹李。貴方がここで一緒に居てくれて、とても心強かったわ。でも、都は駄目。私だって、本当は行きたくないもの。」 「じゃあ、何で都に行くの?」 久樹李の真っ直ぐな問いに、莉堵は目を細める。 海の国に嫁ぐ前の莉堵だったら、それは言われたから惰性でと答えただろう。 でも、今の莉堵はあの頃とは少し変わったのだと思う。 「私が行かないと、大事な人が困ることになってしまうかもしれないから、かな。」 詳しいことを言っても、久樹李には分からない。 他にも色々事情はあるとしても、莉堵の中で一番大きいのは、それだろう。 「大事な人って、誰?」 久樹李はまた口を尖らせて訊いてくる。 莉堵は黙って久樹李の頭を撫でる。 都へ行くことが決まってしまった以上、もう声を大にして言う訳にはいかない。 「莉堵姉さん、寂しいの?」 久樹李がくりくりした目で莉堵を覗き込んでくる。 そんな寂しそうな顔になってしまっているのだろうか。 莉堵は久樹李をぎゅっと抱き締めると、目を瞑った。
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