110人が本棚に入れています
本棚に追加
/53ページ
ぐんと寒さが増し始めたこの頃、氷刃の毛が硬めのしっかりとした冬毛に生え変わっていく。
抜け毛の多くなった氷刃に包まれると、莉堵も毛だらけになってしまって、付き添ってくれた艿音にも顔を顰められてしまった。
「莉堵様。お召し物が酷いことに。抜け毛がましになるまで、氷刃に近付くのはおやめになれませんか?」
後で着物から毛を取る作業が大変なのだろう。
「そうね。氷刃には可哀想だけど、檻越しに会いに来ることにするしかないかしら。」
苦笑気味にそう口にする莉堵に、調教師の座惟摘が近付いてくる。
「是非、そうなさった方が良い。貴女は氷刃に寄り過ぎる。それは氷刃にも貴女にも良くない。」
そう声を掛けてきた座惟摘の言葉には、深い意味がありそうなのだが、よく分からない。
「どうして?」
問い返した莉堵に、座惟摘はちらりとこちらに目を向けた。
「氷刃は、皇帝陛下への献上品であり、貴女のものではないから、ですね。」
敢えてそう口にした意味が分からなくて、莉堵は首を傾げる。
氷刃と莉堵は一緒に皇帝陛下に献上されるのだから、敢えてそれを分ける必要があるのか分からない。
確かに、莉堵が皇帝陛下の宮を出ることになったら、今の言葉はその通りということにもなるが、座惟摘が言うのは、そういう意味ではないような気がする。
「さて、それでは氷刃の毛を梳いてやろうと思いますので、離れて頂けますか?」
座惟摘は、莉堵と氷刃の今の関係が不満なのだろうか。
先日、座惟摘が口にした野の国の一ノ姫という言葉も気になる。
今は亡き野の国のことは、莉堵には良く分からない。
周りにも野の国のことを訊ける者は居なかったから、母親のことも正直余り良く知らないのだ。
これまで生きてきた中で、必要とされる知識でも無かったので、知ろうとしたこともない。
莉堵は梳き櫛を持ってきた座惟摘を見て、氷刃から離れる。
途端に艿音が寄ってきて氷刃の毛を払い始めた。
「氷刃の生え替わりが終わるまでこんな風なら、氷刃の梳き櫛のように付いた毛を取る道具が欲しいですわね。」
艿音が呆れたようにそう言い出して、莉堵は申し訳なくて肩を縮める。
「莉堵姉さん!」
木の葉を舞い上げる風と共に久樹李が走ってくる。
いつも通り遠慮なく、莉堵に抱き付いてきた久樹李を受け止めた莉堵は、毛梳きをされていた氷刃が小さく唸ったのに気付いた。
「氷刃。」
座惟摘の宥めるような声が掛かって、直ぐに氷刃は唸るのを止めたが、ジロリと睨むような目が莉堵に抱き付く久樹李に向けられている。
「あら、氷刃の焼きもちですかしら。」
艿音の呆れたような言葉に、莉堵は肩を竦めてみせたが、座惟摘の顔も氷刃に劣らない程、何故か不機嫌そうに見えた。
「莉堵姉さん、僕やっぱり虎の子は苦手。」
腕の中からちらりと氷刃を覗き見た久樹李が、ぽつりと呟く。
莉堵はその久樹李の頭を撫でてあげながら、ふうと溜息を吐く。
「氷刃は鋭いのよ、きっと。維矢留も近付くと唸られていたから。」
小さくそう告げると、久樹李は納得したように頷いた。
「そいつも連れて行くつもりですか?」
座惟摘が冷ややかな口調で割って入る。
驚いてそちらを向いた莉堵の視線の先で、座惟摘は氷刃の毛梳きを続けながら、こちらを見もせずに問い掛けたようだった。
「氷刃が、嫌がるから駄目っていうこと? 元から連れて行くつもりはなかったけれど。」
何というか、座惟摘の時々みせる莉堵に対するよく分からない厳しさが、どういう事なのか、確かめてみたくなる。
それに、座惟摘は溜息を吐いただけで答えて来なかった。
「ねぇ、やっぱり付いて行っちゃ駄目なの?」
久樹李がそう言い出して、莉堵は久樹李に視線を移す。
「駄目。久樹李はお母さんのところへ帰りなさい。」
きっぱりと言うと、久樹李が少し拗ねたように口を尖らせた。
莉堵は眉を下げて、その久樹李の頭を撫でる。
「有難うね、久樹李。貴方がここで一緒に居てくれて、とても心強かったわ。でも、都は駄目。私だって、本当は行きたくないもの。」
「じゃあ、何で都に行くの?」
久樹李の真っ直ぐな問いに、莉堵は目を細める。
海の国に嫁ぐ前の莉堵だったら、それは言われたから惰性でと答えただろう。
でも、今の莉堵はあの頃とは少し変わったのだと思う。
「私が行かないと、大事な人が困ることになってしまうかもしれないから、かな。」
詳しいことを言っても、久樹李には分からない。
他にも色々事情はあるとしても、莉堵の中で一番大きいのは、それだろう。
「大事な人って、誰?」
久樹李はまた口を尖らせて訊いてくる。
莉堵は黙って久樹李の頭を撫でる。
都へ行くことが決まってしまった以上、もう声を大にして言う訳にはいかない。
「莉堵姉さん、寂しいの?」
久樹李がくりくりした目で莉堵を覗き込んでくる。
そんな寂しそうな顔になってしまっているのだろうか。
莉堵は久樹李をぎゅっと抱き締めると、目を瞑った。
最初のコメントを投稿しよう!