第8章 寂寥と儚想の音

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潮風を孕んだ帆が膨らんで、船は順調に進み出していた。 追い掛けてくる海鳥達に、航海の無事を願って慣例通り米菓子を砕いた物を撒く。 瞬く間に無くなった菓子の影に苦笑しながら、渡津依は船べりから離れた。 海の国は、元は港に集まった商人達が海運貿易で財を築いた街から始まっている。 そのお陰で、朝廷への税の徴収が他国と比べると緩やかで、海の国は潤っている。 だが、それに気付いた朝廷は、再三海の国に国主を置こうとしたり、税を引き上げようとしてみたり、それに被せて無理難題を吹っかけて来たりもしている。 今回の皇帝の生誕祝いについても、海の国として前々から遜色のない献上品を用意していたが、直前になってそれとなく他の品を指定するようなことを仄めかして来た上に、まだ若輩ですからと避けてきた渡津依の上京を促して来たのだ。 行けば、どんな罠を仕掛けて要求を飲ませようとしてくるかもしれず、渡津依としては気を揉む上京となりそうだった。 海の国内でも、新しい元締めの渡津依を試すような空気があって、表立って味方をしてくれる力のある商人は少ない。 若くして代替わりしてしまった以上、仕方の無い事だが、背負うものがある以上、こちらも負ける訳にはいかない。 「元締め! お屋敷を出られてから手紙が届いたようで、お屋敷の者が出港直前に慌てて届けて参りました。」 そう言って、船員の一人が渡津依に手紙を手渡してくる。 「ああ、済まないな。」 受け取った渡津依は手紙の差出人を確認する。 まだ山の国にいる筈の深都波(みづは)からだったが、その筆跡は慌てて書いたのが分かるような少し乱れた字だった。 前日、樹の国にいる莉堵からの手紙を受け取ってから、深都波に急ぎで手紙を出したが、それをまだ彼は受け取ったかどうかというところだろう。 やはり陸路は時間が掛かる。 船で陸伝いに都を目指すと、陸路を行くよりも15日以上も工程を短縮出来る。 深都波にはその途中の、山の国の端の小さな岸辺で合流出来ないかと打診する手紙を送ってある。 その岸辺で5日後に丸一日停泊するので、そこに間に合えば、莉堵を連れて来るようにと書いておいた。 時間差的にその返事では無さそうだが、何かあったのなら早く確かめるべきだろう。 渡津依は船室に戻ってから、手紙を開く。 『渡津依様。 取り急ぎお知らせ申し上げます。 本日、樹の国の国主のご子息だという根郡須殿が乃呼(のこ)を訪ねて来られました。 樹の国の兵士を伴った間違い様のない風貌出立のお方でした。 その方が仰るには、莉堵様は樹の国の国主殿に連れられて、樹の国の宮城へ参られたそうです。 その理由についてお聞きしますと、根郡須殿はとんでもない事を仰いました。 樹の国で莉堵様は地の国の兄君とお会いになり、渡津依様とはお別れになって、樹の国の献上品と共に皇帝陛下へ献上されることに相なったとのことでございました。 にわかには信じ難い事でしたが、根郡須殿は嘘を仰っておられるようには見えず、また莉堵様のことも良くご存知で、乃呼に莉堵様の元へ来るかと訊かれた程でした。 乃呼に関しましては、漸く病が抜けたところと体調も心配でしたので、樹の国にはやりませんでしたが、一度地の国へお問い合わせされることをお勧め致します。 深都波。』 所々掠れた字になっているのは、流石の深都波も慌てたのだろう。 渡津依は真顔のまま読み終えると、手紙を閉じて険しい顔になる。 可能ならば、船を返して地の国と樹の国に殴り込みを掛けたいくらいだ。 莉堵を皇帝へ献上などと、何をとち狂ったかと言いたい。 莉堵は正しく未だ渡津依の妻だ。 こちらから離縁を申し出たことも無ければ、地の国から打診があった訳でもない。 それを勝手に皇帝に献上するなど、海の国と渡津依を舐めているとしか思えない。 それ以上に、莉堵はそんなことを望んでいない筈だ。 そもそも彼女の性格をみても、皇帝の妃になりたいと思うような質ではないし、実際に都に行っても馴染めないだろうと思う。 自由を愛する彼女には、窮屈な後宮などは最も向いていない場所であるに違いない。 後は、行動力もあって意志もはっきりしている彼女にどうやって言う事を聞かせているのかという事だ。 何かとんでもない弱味でも握られているのではないだろうか。 そう思うと、渡津依は居ても立ってもいられないような気持ちになった。 莉堵は、渡津依の大事な妻だ。 例え一晩しか共に過ごしていなくとも、もう抱えて生きると決めた愛しい女性(ひと)を、勝手に掠め取られるのは、誰にであろうとも我慢ならなかった。 宙を睨んだ渡津依は、これまでにない程、頭を働かせ始めた。
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