第9章 はなむけ

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大勢の人前で、氷刃に大人しく座らせたり伏せをさせるという最後の訓練を終えた莉堵は、氷刃を沢山撫でてやってから、獣舎を後にした。 氷刃は莉堵の言うことは基本的に何でも聞いてくれるが、直ぐに甘えて体勢を崩してしまう。 仕舞いにはいつも通り莉堵を包み込んでしまうので、実はこの訓練は酷く骨が折れた。 それでも10日くらい掛けて毎日厳しく躾けられた結果、何とか出来るようになっていた。 都までの道中は、氷刃の世話は伸座究(のざく)が付いてきてくれるそうだが、皇宮には専属の獣の世話係がいるので、そちらに引き渡すのだそうだ。 莉堵としては、樹の国の宮城を出たら、座惟摘(ざいつ)と顔を合わせずに済むことになる筈で、それだけは少しほっとするような気がした。 宮城に向かって歩いて行くと、警備の兵士達の会話が耳に入ってきた。 「いや、左頬がそれは見事に。」 「酷い鼻血が出て鼻っ柱が折れたって聞いたぞ。」 「珍しいよな、根郡須(ねぐす)様が。」 「酔った勢いって本当か?」 「いやいや、じゃなきゃまずいだろ。日頃のイライラが募って。」 その対象に気付いて、思わず吹き出しそうになるのを莉堵は目を逸らして堪えることになった。 通り掛かった兵士達が青い顔になっていたが、まあ人に聞こえるところで、客の噂話は良くない。 内容はともかく、そこは反省してもらうことにしよう。 莉堵は少しだけ胸がすっとするような気がしながら、与えられた客間の方へ向かった。 そう言えば昨晩宴の後に、莉堵と居間を挟んで反対側の寝室で寝泊りしている埜州示(のすじ)の部屋が、少し騒がしかったような気もしたが、今日はまだ見掛けていなかった。 兵士達の話しを聞く限り、根郡須(ねぐす)維矢留(いしる)との約束を果たしたのは間違いないようだ。 廊下の角を曲がった所で、その根郡須が外を見ながら立っているのに出会して、莉堵は目を見開く。 こちらに気付いた根郡須は、小さく、だが明らかににやりと笑ってこちらを見やってから、肩を竦めた。 「埜州示殿はどうだ? ついうっかりやり過ぎてしまったみたいでな。」 声を落として訊いてくる根郡須は、殴ったことは反省していないが、やり過ぎたかもしれないことは気にしているようだ。 「さあ、今日はまだ顔を合わせてないから。多分、腫れが引くまで、私のところには姿を見せないんじゃないかしら。」 こちらも肩を竦めて言うと、根郡須はまたにやりと笑い掛けてきた。 「ところで、少し良いか?」 根郡須は言うと、莉堵を促して客間から遠去かり始める。 何処へ行くのかと思っていると、根郡須は随分長いこと歩いて、庭園の東屋に莉堵を案内した。 東屋に入った根郡須は辺りを眺めるように背を向けていたが、不意に振り返った。 「あのな、莉堵。最後にもう一回だけ訊かせてくれ。」 改まった口調で切り出した根郡須に、莉堵は首を傾げる。 「都に行かずに、海の国にも帰らずに、俺の妻になるつもりはないか?」 莉堵はそれに驚いて目を瞬かせる。 その話しは今更根郡須の中にはないと思っていた。 「ええと。それはもう良いのかと思ってた。」 正直に告げると、根郡須は溜息を吐きながら苦笑を浮かべた。 「もういっそ清々しい程に、俺のことは目に入ってないんだな?」 莉堵はこちらも口元を苦くする。 「だって、根郡須様には清梛(すな)様がいらっしゃるし。」 「俺はな。莉堵は清梛に負けないくらい良い女だと思うぞ。何でお前が惚れたのが俺じゃなかったんだって、残念で仕様が無い。」 莉堵はそれに困ったような笑みを浮かべる。 「昨日俺があの馬鹿兄に言ったのは、冗談でも嘘でもないぞ。だから、自分勝手なことばっかり言いやがる馬鹿兄に、思わず加減が利かなくなった。」 莉堵は驚いて、根郡須の顔を見返す。 と、存外真面目な瞳に出逢って、莉堵は困ったように眉を下げた。 「あのね、根郡須様。今の貴方には少しドキッとしたけど。でも、貴方がそう言うのは、私だけじゃないでしょう?」 率直に返して目を上げると、根郡須の口元が歪んで、ぷっと吹き出した。 「流石は莉堵だな。俺の本気の口説きも通じないか。はああ。」 根郡須は言って、声を上げながら伸びをする。 「あのな。ここへ来て俺にしてやれるのは、もうお前を妻にしてやることくらいしか思い付かなかった。手を出して孕んだってことにでもしとけば、親父も諦めるかと思ったんだ。」 何というか、とんでもないことを言い出すものだと呆れたような目を向けておく。 「そういえばこの間、始めに海の国に手紙を届けに行った奴に聞いたんだが、海の国の元締めは物凄く若い男なんだってな?」 突然話しの矛先を変えた根郡須に、莉堵は目を瞬かせる。 「ええと、そうね。渡津依様は私より一つ歳下で、17歳だから。」 そういう情報は中々広まらないものなのだろうか。 きょとんとした顔で答えた莉堵に、根郡須は苦い顔になった。 「頼りなくはないのか? 当代の元締めは世襲らしいし、そこまで若くては周りに舐められっぱなしじゃないのか?」 海の国の元締めとしての渡津依のことは、どんな風なのか正直良く知らない。 もっと言えば、渡津依自身のことも余りにも接した時間が短過ぎて、良く分からないことだらけなのだろう。 何を知らないのかも分からない程だ。 目を逸らした莉堵のことをどう思ったのか、根郡須はまた溜息を漏らした。 「餓鬼同士のおままごとでは、朝廷は相手取れないぞ。莉堵、賢く立ち回れ。でないとお前達は共倒れになる。」 根郡須は真面目な少しだけ厳しい口調でそう言った。 何を言いたいのかは良く分からなかったが、莉堵の立ち回り次第で渡津依を窮地に立たせる可能性があるということだろう。 莉堵は小さく頷いた。 「悪いな莉堵。俺は今回の都行きには付いて行ってやれない。親父が出る以上、俺は留守居だ。都で力にはなってやれない。」 それも仕方の無いことだろう。 「その代わりに、艿音(じね)をお前に付ける。艿音は清梛に付いて都から来た侍女だから、都のことにも明るい。随所で助けになるだろうし、本人も里帰りしたがっていた。清梛もお前の事を気に入って、お前になら艿音を託せると賛成してくれた。」 ここへ来てからずっと、身の回りの世話をしてくれている艿音には本当に感謝している。 彼女が側に付いていてくれたお陰で、この宮城での生活にも困ることが無かった。 「艿音の方も、お前になら付いて行っても良いと言っている。事情も話して、海の国の元締めの事も知ってる。都で元締めに繋ぎを取りたいなら、艿音を使え。」 莉堵は目を見開いて根郡須を見詰める。 「残念だが、俺に出来るのはここまでだ。」 告げた根郡須は穏やかな目を向けてくる。 莉堵はそれに、目頭が熱くなるような気がしながら、深々と頭を下げた。 「根郡須様。何から何まで、有難うございます。」 根郡須の手が優しく莉堵の頭を撫でる。 「ここまで来たら、何が何でも元締めと幸せに暮らす未来を作ってみせろ。それなら、振られた俺の面目も立つっていうもんだろう?」 冗談めかして言う根郡須の手は暖かくて、莉堵は目元をそっと拭ってから、もう一度大きく頷いた。
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