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出発の朝、身支度を整えて一月過ごした客間を振り返ると、少しだけ寂しいような気持ちになった。
生きる希望さえ無くして、ぼおっと見つめ続けていた床の木目。
渡津依に全ての想いを綴った手紙を書いた机。
艿音と一緒に氷刃の毛をちまちまと取る作業をした椅子。
訪ねてくれた清梛とよくお茶をした応接机。
歩き方から姿勢から、厳しく直されて、見詰めることになった目の高さの壁の滲み。
どれも思い出深いものになった。
縁もゆかりもない樹の国の国主の宮城は、一月前来たばかりの頃の事が嘘のように去り難い場所になってしまった。
感慨に耽りながら、莉堵は部屋の扉を開ける。
と、外で清梛が待っていた。
「清梛様。」
呼び掛けると、清梛が目元を拭うような仕草をしてから、こちらを向いた。
「莉堵様。これでお別れするのかと思うと、私寂しくて。」
可愛らしくそう口にする清梛に、莉堵は微笑み掛ける。
この城の誰よりも、清梛と一緒に過ごした時間が長かった。
「莉堵様、私。根郡須様にはお戻りになられてから直ぐに、本当は莉堵様を妻の一人にしたいのだと聞いていましたの。」
莉堵はそれにぎょっとする。
幾らなんでも、根郡須の神経を疑いたくなる。
「根郡須様は気の多い方で、今も私の他に愛する方が何人もいらっしゃいます。でも、私には隠し事をなさらないんです。」
何と答えて良いのか分からなくて、莉堵は黙って清梛の話しを聞いておく。
「それは、お勤めやお仕事に関わる事は、詳しくはお話しになられませんけれど。夫婦として知っておくべきことは、全て仰って下さいます。ですから、根郡須様の妻として胸を張っていられるのです。」
清梛は、清々しいような笑顔で微笑んでみせた。
「昨日、根郡須様が莉堵様に最後の打診をされて、断られたとお聞きしました。私、正直少しほっとしたんです。でも、それと同じくらい残念な気持ちもあったんですよ。莉堵様となら、根郡須様の為にお互い尽くして行くことが出来るんじゃないかと思っていたんです。」
莉堵は驚いたように清梛をまじまじと見つめた。
微笑む清梛はとても綺麗だと思った。
でも、莉堵はそんな風にはなれそうもない。
「私は、もしかしたらとても小さな事にこだわっているのかもしれません。でも、愛しい方が自分以外の女性を同じように愛しているのを知ったら、きっと平気ではいられません。」
正直に答えた莉堵に、清梛は少しだけ苦味を加えた笑みを返して来た。
「でも、そんな清梛様のことは尊敬しています。そんな清梛様だから、いつまでもどんな時も綺麗で、根郡須様が一番大事にされるんだと思います。」
それに、清梛はまた目元を潤ませた。
「もう、莉堵様が大好きです。どうかいつまでも私の親友でいて下さいませ。私、莉堵様がこれからどんな風に生きて行かれることになっても、応援していますから。どうかお幸せになって下さいませ。」
そう言って清梛が抱きついてくるのを、莉堵はぎゅっと抱きしめ返した。
しばらく二人で鼻を鳴らしてから、照れたように離れると、清梛が莉堵の手を取った。
「私、莉堵様にお持ち頂きたいものをご用意しましたの。私の部屋まで寄って下さいます?」
にっこり笑顔で清梛に手を引かれて歩き出す。
「何にしようか、凄く迷ったのですよ。あれもこれもとご用意しようとしたら、艿音に荷物になりますからと、呆れられてしまいましたわ。それで、私としては頑張って厳選致しましたの。」
小さく拳を握って言う清梛がとても可愛らしい。
清梛に導かれて入った清梛の部屋には、物が溢れていた。
所狭しと並べられた色取り取りの布地やら着物やら、小物類や、小道具類等、足の踏み場もない程だった。
その部屋の中には、艿音が待機していて、清梛に呆れたような目を向けていた。
「清梛様、せめてお一つかお二つにして下さいませと申し上げましたのに。」
艿音からの恨めしいような声に、清梛が小さく肩を竦めた。
「だって、決められなかったのですもの。この上は、莉堵様ご本人に選んで頂こうと思ったのですわ。」
少し口を尖らせるのも、清梛がやると可愛らしい。
莉堵は苦笑しながら並べられた物を眺める。
どれもこれも勿体無い程綺麗な物ばかりだ。
「どうかしら莉堵様? 艿音はああ言うけれど、持って行けそうなら全部でも良いのよ? 私、どれも莉堵様に持っていて欲しいんですもの。」
遠くから、艿音の溜息が聞こえてくる。
莉堵はまた苦笑してから、一つずつ見せて貰うことにした。
昨日の内に自分の身の回りの物の準備と、烝榴宜から用意してもらった衣類や道具類の支度も整っている。
これ以上の布地や着物は要らない気がする。
と言って、小物や道具類もこれからどうなるか分からない身としては色々と持ち歩かない方が良いかもしれない。
そう思いながら見ていると、仕立てた着物の中に、上等そうな布地で作った前掛けが一つある。
莉堵はそれを手に取った。
前掛けとして使うのは勿体無いような生地と作りだが、持っているだけで、樹の国で過ごした日々を懐かしく思い出せるような気がする。
「では、これを。」
目を上げて言うと、清梛は少しだけ不満そうな顔になった。
「それは勿論、莉堵様に持って行って頂きたいですけれど。他には?」
身を乗り出して言われて、莉堵は苦笑気味に他の物に目を移す。
化粧道具に髪飾り、置物や細工物の小箱、筆記具や姿見等、それに使い方の分からない物も幾つか含まれていた。
莉堵はその中から、恐らく樹の国独自の技法で作られているのだろう木象嵌の小箱を手に取った。
赤茶に近い色合いの、花の形を象った木片の間を繋ぐように蔓が絡む意匠の繊細な細工が、蓋と側面に施されている綺麗な小箱だった。
「では、これを頂いても良いですか?」
微笑みながら清梛に目を向けると、清梛の優しい笑顔が返ってきた。
両手の上にちょこんと乗る程度の小箱ならば、嵩張らないし、大事な物を仕舞っておくことも出来るだろう。
「では、この中に私のお勧めを詰め込んでお渡ししますね!」
清梛は嬉しそうに微笑むと、並べられていた物の中から綺麗な髪飾りや装飾品、紅等を詰め込んでいく。
空のままの箱で良かったのだが、目を輝かせている清梛を遮れなくて、莉堵は少しだけ苦みの加わる笑みを浮かべて見守った。
「清梛様、そのくらいになさいませ。詰め込み過ぎては、壊れてしまいますよ。」
遂には艿音に呆れたように止められた清梛は、少し残念そうにしながら、こちらを振り返った。
「莉堵様、お身体に気を付けて下さいませね。それから、お手紙も下さいますわよね?」
言い募る清梛の目に、また涙が溜まり始める。
「はい。必ず。清梛様もお返事下さいますか?」
こちらも貰い泣きしてしまいそうなのを堪えて、莉堵は笑顔を作る。
「勿論ですわ。私からも、きっと沢山お出ししますから、読んで下さいませね!」
清梛がそう言って、もう一度抱き付いてきたのを抱き返してから、莉堵は清梛の部屋を後にした。
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