第9章 はなむけ

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穏やかな岸に停まった船で、波の音と海鳥が鳴く声を背景にゆらゆらと揺られながら1日を過ごした。 山の国を回り込んだ接岸の出来る唯一の場所がこの岸で、深都波に手紙を出した通り、ここで丸一日深都波の合流を待つことにしていた。 出港は、翌日の朝になる。 深都波からの手紙の通りならば、ここへ合流するのは深都波と乃呼だけになるのだろう。 だが本当は、あの手紙が何かの間違いで、莉堵の姿が見られればどれ程良いだろうと思ってしまう。 他人(ひと)に言えば、たった一晩過ごしただけの花嫁など、さっさと忘れてしまえと言われるだろう。 しかも、二度も渡津依の前から勝手に姿を消したような妻だ。 だが、とてもではないが、忘れることも諦めることも出来そうにない。 地の国から正式に離縁の詫びが入って、代わりの姫を寄越されたとしても、渡津依の元の婚約者候補の一人を娶ることになっても、受け入れられる気がしなかった。 自分の妻は莉堵だけなのだと、何としても取り戻すのだと、それしか考えられない。 若さ故の気の迷いだと言われるかもしれない。 他の女を妻にすれば気が変わると言われるかもしれない。 だが、これを譲れるくらいなら、海の底から帰ってきたと言った莉堵を、そもそも受け入れられなかった筈だと思う。 この上は、都で彼女が献上される前に、彼女の気持ちを確かめるしかない。 「渡津依様〜!」 岸の方から声が聞こえて、渡津依はそちらに目を向ける。 と、岸から大きく手を振る深都波の姿が見えた。 「誰か、岸まで迎えに行ってやれ。」 渡津依が声を掛けると、船員の一人が頷いて、小舟の用意を始めた。 しばらくそのまま待っていると、船に着いた小舟から、深都波が乗り込んできて、後から来た乃呼を引っ張り上げる。 その様子を見て、桟橋のある港でもなければ、女性を船に乗せるのは難しいのだと渡津依は気付いた。 何とか乗り込んだ乃呼を、深都波は気遣ってから、渡津依の方へ歩いてきた。 「渡津依様、遅くなりまして申し訳ございませんでした。」 言って頭を下げてきた深都波に、渡津依は穏やかに頷き掛ける。 「間に合って良かった。」 言葉少なに返した渡津依に、深都波は改まった顔になって、その場に膝を突いた。 「渡津依様。この度は、申し訳ございませんでした!」 深く頭を下げた深都波が、絞り出すような声でそう謝ってくる。 確かに、莉堵の家出当初は、帰ってきたら深都波には少し厳しく言う必要があるかと思っていた。 いくら深都波が、渡津依と縁戚に当たる幼い頃から親しい間柄だと言っても、主従である以上勝手が過ぎるのは困ると。 が、冷静になると、莉堵が戻った翌朝、屋敷の者達や特に莉堵を任せた深都波に、しっかり説明もせずに仕事に出てしまった自分にも問題があったのだと反省した。 「それはもう良い。お前も俺の為を思ってしたことだろうから。それより、これからのことを。」 顔を上げた深都波は、難しい顔になって頷いてきた。 「あの、旦那様。」 そこへ乃呼が遠慮がちに話し掛けてくる。 「深都波からの手紙は読んだ。船室で詳しい話しを聞こう。」 二人を伴って船室に入ると、渡津依は机にバンと手を突いた。 「何があって、莉堵は樹の国に行くことになった?」 振り返ると、二人は顔を見合わせてから、こちらを向いた。 「旅の途中で、夜道に迷って狐の家に泊まることになったのです。」 深都波の口から出て来た理解し難い言葉に、渡津依は思わず顰めた顔を横に傾けた。 「渡津依様。私は、莉堵様の周りを普通の尺度で計るのは止めることにしました。狐と言ったら狐で、魚と言ったら魚なのです。」 妙に悟り澄ましたように語り出した深都波に、渡津依は何とも言えない顔を向ける。 「その狐の家で、莉堵様を追って来た魚と揉み合いになりまして、怒った家主の狐に私がお灸を据えられるところを、乃呼が間違って呪いに掛かってしまったのです。」 相変わらず理解し難い内容だが、そのまま受け取れということなのだろう。 「その呪いは病を与えるものだったようで。酷いと死に至る場合もあると狐に言われました。そこで、色々と細かいところは飛ばすとして、特効薬を得る為に、莉堵様は魚を連れて狐狸の隠れ里に向かうことになりました。」 「私の所為で、お優しい莉堵様がこんなことに。」 乃呼が悔いるように口を挟んだ。 「そこから、どうして樹の国に行かれたのかは、私達には分かりません。」 深都波の視線がそこで下がった。 渡津依は、肝心なところのない話しに、ふうと溜息を吐いた。 「じゃあ、そこからは僕が話そうか?」 突然、部屋の隅から聞こえた声に、渡津依は驚いてそちらを見る。 と、声変わりもまだの、渡津依より5つは年下ではないかというくらいの青っぽい髪の少年が部屋の隅に立っていた。 「維矢留(いしる)!」 深都波が身を乗り出すようにしてそう呼び掛ける。 「あんたが莉堵様の旦那?」 こちらを見て、少年維矢留は睨み付けてきた。 「そうだ。お前は?」 「海竜の維矢留。あんたが莉堵様を取り戻せないなら、僕が莉堵様を奪って連れて帰るから!」 いきなりな敵対宣言に、渡津依は眉を顰める。 「取り敢えず、今のは聞き流す。深都波達と別れてから、莉堵に何があったのか話してくれ。」 精一杯冷静に返した渡津依に、維矢留は再び睨みをくれてから、話し始めた。
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