第10章 白い小花の贈物

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樹の国の宮城から都までは、他国の領土を通りながら、一月程の旅になるそうだ。 また馬車の旅になる氷刃のことを心配していたが、昼休憩の時には餌を食べていたようなので、伸座究(のざく)と一緒に胸を撫で下ろした。 同じく莉堵のことも周りからは心配されていたようだが、こちらは完全に気持ちの問題だったので、食事はきちんと食べるようにした。 何事もなく夕方を迎えて、国主の別宅の一つに入ると、夕食に湯殿にと忙しく熟して、氷刃の様子を見に行けたのは、周りが寝静まってからだった。 伸座究も獣舎から引き上げた後のようで、辺りには人の姿もなかった。 小さな灯りを持って獣舎に入って行くと、気が付いた氷刃がのそりと起き上がって、檻の淵に寄ってくる。 檻の隙間から手を入れて莉堵は氷刃の頭を撫でた。 「ごめんね。来るのが遅くなっちゃったわね。」 小さく声を掛けると、氷刃も小さな声で甘え鳴きをしてきた。 「伸座究が寝ちゃったから、檻は開けて貰えないわね。また、明日の朝早く来るから、今日はもう寝ましょうね。」 莉堵はそう言って、檻の隙間から手を抜いた。 振り返ると、獣舎の入り口に月を背にして誰か人が立っている。 莉堵ははっとして、身を震わす。 暗くて誰かは分からないが、背筋が寒くなるような気がした。 「誰?」 声を掛けると、その人影は無言で獣舎の中に入ってくる。 莉堵は灯りを握り締めて、いざという時の為に身構える。 だが、人影は灯りの届くぎりぎり手前で立ち止まって、莉堵の前に膝を突いた。 「お迎えに上がりました。野の国の一ノ姫様。」 恭しく口にしたその声は、座惟摘(ざいつ)のものだった。 呆気に取られて答えられずにいると、座惟摘は立ち上がった。 「これより、野の国へお逃げになるお手引きを致します。」 言うなり、座惟摘が莉堵の手を掴んだ。 「待って。貴方は一体誰なの? 私は、野の国の姫じゃないわ。」 野の国の姫だったのは母親で、莉堵ではない。 第一、野の国は地の国に攻め滅ぼされて、もう存在しない筈だ。 「貴女は、何もご存知ない。このまま、皇帝に捧げられてはならない。緯緒(いお)様は、だから地の国に甘んじられた。」 緯緒は、莉堵の母親の名前だ。 「貴女は、野の国の当代の一ノ姫だ。皇帝の子を産んではならない。」 座惟摘の言葉は、いつも通りさっぱり意味が分からない。 「どうして? 野の国はもう滅んだのでしょう? 一ノ姫というのは何? でも、私は都で渡津依様に会わなきゃいけない。皇帝陛下のお子様を産むことには、多分なりそうにないし。」 疑問を並べて、こちらの主張をしてみると、座惟摘は口を閉ざしてこちらを窺うように見つめて来る。 莉堵は、瞬きを繰り返す。 「貴女は、多くを惹きつけ過ぎる。選び間違えてはならない。」 座惟摘はそう告げると、莉堵の手を離した。 「またいずれ、お迎えに上がります。」 そう残して、座惟摘は踵を返すと、足音も立てずに獣舎から走り出て行った。 振り返ると、檻の中の氷刃は身を伏せて目を瞑って寝息を立てている。 今あった出来事が、現実味を失って行く気がした。 座惟摘は何者で、野の国の一ノ姫とは何を意味するのだろうか。 檻に凭れて足元を見つめながら考え巡らすが、何も知らないと言われた通り、莉堵の中には答えがない。 それに、彼の口振りでは、莉堵が皇帝の子を産まなければ問題ないというようにも取れた。 ならば最悪、一度は後宮に入ることになっても、何とかなるのではないかと思えて来た。 莉堵は檻から身を離して、獣舎の入り口に向かう。 明日にでも、伸座究に座惟摘のことを訊いてみようと心に決めた。
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