さよなら

2/2
前へ
/2ページ
次へ
母は俺に気づかず店内に入っていった。 そうか。そんなもんだよな。 声をかけるのをやめた。 暖簾には『さや香』と書いてあった。 母の今の源氏名だろうか。 母はたくさんの名前を持っている。 なにがさや香だよ。 明子(あきこ)のくせに。 少し笑えた。 会わずに帰る事に決めた。 懲役は初めてではない。 次は何年後にこの街に来られるか分からない。 そもそも来るかどうかも分からないけれど その時俺の母親はどんな名前でたくましく生きているんだろうか。 少しその場から離れられずにいると、 店内からもう一度母が出てきた。 客らしき男の腕を組んで中に入っていった。 母も、この街も、俺もなにも変わらない。 もう未練はない。 帰る場所もないけれど、俺は一歩踏み出した。 一度も振り返らずに、歩く。 そうすれば、思いを断ち切れるような気がした。 なんでここに来たんだろう。 なにを期待してきたんだろう。 一丁前に、郷愁かよ。 俺はなにが可笑しいのか分からないが笑いたくなった。 じゃあな、明子。 心の中で、そう呼びかけた。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!

11人が本棚に入れています
本棚に追加