11人が本棚に入れています
本棚に追加
母は俺に気づかず店内に入っていった。
そうか。そんなもんだよな。
声をかけるのをやめた。
暖簾には『さや香』と書いてあった。
母の今の源氏名だろうか。
母はたくさんの名前を持っている。
なにがさや香だよ。
明子のくせに。
少し笑えた。
会わずに帰る事に決めた。
懲役は初めてではない。
次は何年後にこの街に来られるか分からない。
そもそも来るかどうかも分からないけれど
その時俺の母親はどんな名前でたくましく生きているんだろうか。
少しその場から離れられずにいると、
店内からもう一度母が出てきた。
客らしき男の腕を組んで中に入っていった。
母も、この街も、俺もなにも変わらない。
もう未練はない。
帰る場所もないけれど、俺は一歩踏み出した。
一度も振り返らずに、歩く。
そうすれば、思いを断ち切れるような気がした。
なんでここに来たんだろう。
なにを期待してきたんだろう。
一丁前に、郷愁かよ。
俺はなにが可笑しいのか分からないが笑いたくなった。
じゃあな、明子。
心の中で、そう呼びかけた。
最初のコメントを投稿しよう!