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空の彼方
冷たい廊下に、足音が響く。高い天井に吸い込まれていく。大勢人がいるはずなのに、ここはピサの町のどこよりも静かだ。
ロドリゲスはなるべく足音を殺しながら、早足で歩いた。すでに三〇分遅刻していた。それもこれも、時間にルーズな学部長のせいなのだが、約束相手には関係ない。
「お待たせ致しました。すみません、遅れてしまって」
ザンピアーノ教授は、平然と振り向き、上着をとって立ち上がった。薄暗い教授室で見るといつも以上に顔色が悪く見える。もう五〇すぎで髪も白くなっている教授は、「患者に間違われる医者」として有名だった。
だが、立ち姿は堂々としていて、誰に対しても物怖じしない。腕も良く、幸運なことにロドリゲスは三〇にして第一助手の立場をもらえていた。
「では参ろうか」
「はい」
今日は新しくできた病室を見にいく予定だった。医術に特化したピサ大学には、附属病院がある。最先端の医術を受けられるときいて、貴族や王族などそれ相応の位を持った人間が多く訪れる。
だが、患者が多くなるに従い、あまりに部屋が味気ないという不満が囁かれるようになった。もともと家に調度品を欠かさない人々だ。更に近所のフィレンツェでは芸術家たちが精力的に働いていた。立地を生かして、病院内にも芸術作品を置けと言うのである。
当然大学側は最初断った。そんなものを置くくらいなら新しい薬を入手したいところだった。更にフィレンツェとピサの関係は最近悪化していた。度々攻めてくるフィレンツェが雇った傭兵に、ピサは苦労していたのだ。
だが貴族たちの不満も相当に達していた。ついに贅沢好きなビアンピーノ公他数名が援助を申し入れることを決めた。公の顔を立てるため病院側も「もっと居心地の良い病室を新たに作る」という名目で渋々腰を上げたのだった。
外に出ると、明るい太陽が二人を照らした。目を細める。薄暗い廊下に慣れた目には、外の太陽は眩しかった。
そのまま中庭を通り、病棟の階段を登る。今回の増築は最上階に作られていた。
「今度の芸術家はどなたなんですか?」
「スィニョーレ・ダ・ヴィンチだそうだ」
「! あの……!?」
ロドリゲスが驚きの表情を隠せなかったのも無理はない。ダ・ヴィンチといえば、今をときめく芸術家の中でも最高峰、あのロレンツォ・メディチも手放したがらなかったほどの大物だった。
「なんでそんな方がうちに……?」
「わからん。まあお偉い方の考えることの半分以上はわからんが」
教授は苦虫を噛んだような顔をして言った。教授こそ、最後まで貴族たちの希望を飲むことに反対していた代表格だった。誰よりも質素権益を胸とし、医術の発展に熱を注いできた教授にとって、その希望は単なるわがままに見えても無理ないことだ。病室が増えるということで要望を飲んだものの、その本心はもっと安く済ませるべきだとしているのはよくわかった。
その話を聞いてきたため、ロドリゲスも今回の増築は甚だ疑問だった。
「こんにちは」
階段を登る途中、三階の踊り場で上階から声をかけられた。二人が見上げると、金髪の少年がこちらをのぞいていた。十四、五歳だろうか。半袖の作業服に、絵具があちこち飛び散っている。
「ジョバンニと言います。先生の助手です。先生はお仕事でお忙しいので、僕が代わりに来ました。出来上がった最上階を見にいくんですよね?」
ロドリゲスは内心凍りつきそうになった。なんという無礼。そっと教授の顔色を伺う。教授は、大っぴらには出さずともやっぱり不愉快に思っていることが眉から知れた。
「そうか、ではーー」
「ザンピアーノ先生!」
教授の声を遮り、少年の横から看護師が叫ぶように声をかけた。教授は一瞬にして厳しい表情になる。
「どうした」
「ロマーノ公の容体が突然悪化したんです。ぜひ先生に見ていただきたいのですが」
「わかった」
言葉少なに頷くと、教授はロドリゲスを振り返った。
「君、私の代わりに最上階を見せてもらいなさい」
「し、しかしーー」
「もうできてしまったものだ。教授会の賛成も過半数。私が気に入らなかったとて、今更どうということはないだろう」
教授は片方の口角を上げて皮肉っぽく言うと、看護師に連れられてせかせかと歩いて行った。後には、少年とロドリゲスだけが残された。
じゃあ行きましょうか、と言う少年に黙って頷く。少年は呆れたように笑った。
「頭の良い方はお堅いんですね」
「堅く見えるとしたら、それは君たちの見えているものがあまりにも狭いからだろうな」
素っ気なく返すと、少年は肩を竦めた。二人は黙って階段を登った。ロドリゲスは、苛立ちを隠せなかった。この国は役に立たないものばかり奨励する。芸術が不要なものとは思わないが、もう少し市民の暮らしに目を向けてほしい。医術は貴族たちのものというわけではないのだ。
ロドリゲスはポケットに入れていた、小さな人形に触れた。今は亡き持ち主は、流行病で死んでいた。薬は作られていたのに、買う金がなかった。
「先生は誰よりも先を見ておられる方です」
前を歩く少年が呟いた。病棟の雑踏に紛れ、聞き逃しそうになる。ロドリゲスは足を早め、少年と並んだ。
「一枚の絵は命を救えないだろう」
「それは芸術の役目ではありません。でも、近いことはできます」
あの絵を見ればきっとわかります。
少年は確信したような目で頷いた。ロドリゲスは目を逸らし、足を早めた。さっさと終わらせて論文の続きを読みたかった。
階段を上り切ると、二人は横に開けられた通路に入った。一見他の病室とは変わらない。どんな突飛なものを作ってくるのだろうと思っていたが、拍子抜けだ。だがその失望感は、病室の中に入ると全て消え去った。
「こ、これは」
空が見える。屋根があるのに。
天井に大きな空の絵が描かれていた。柔らかな光に照らされた雲と、ラッパを吹く天使の絵が四隅に散っている。あまりにも写実的で、雲が風にたなびいているかのようだ。絵があること以外は他の病室と何も変わらないのに、心なしか部屋に差し込む光も柔らかく見えた。いつもの病室とは違う優しい空気が溢れている。ロドリゲスは思わず息を吸い込んだ。
何を目的に、ここが作られたのかわかった。もう助からない患者のためにあるのだ。もう外に出ることも叶わない人々のために。
「光が空色に反射して、より柔らかく見えるんです」
少年は得意げに言った。それから忘れずに付け足す。
「こんな綺麗なもの描ける人は、先生くらいですから」
ロドリゲスは苦笑した。もう一度天井を見上げる。確かに、本物の空より空らしい。そもそも、空というのはこんなに美しいものだっただろうか。
それから少し足を曲げ、蹲み込んだ。少年と目を合わせる。
「君の先生を悪く言ってすまなかった」
少年はいいえ、と言って微笑んだ。
「僕もすみませんでした。生意気だっていつも怒られるんです」
暖かな日光が白いベッドを照らす。死ぬときは、こんなベッドで眠りたいものだ。ロドリゲスは目を細めた。
fin.
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