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フラッシュの猛烈な光に私はまばたきを繰り返す。目が開いている写真など一枚も撮れていないのではないかと疑いたくなるくらいだ。
「榊原さん、こちらも向いていただけますか?」
「榊原さん、もう少し笑っていただけますか?」
五十半ばのおばさんでも笑っていた方が見映えがいいのだろう。金屏風をバックに背筋を伸ばし、私はありったけの笑顔を向けたが少しも勝利者になった気分にはなれなかった。二十年前なら喉から手が出るほど欲しかった賞をいただいたというのに何も興奮は湧き上がらず、心は静かに凪いでいた。
これは、私が自分の中のバケモノと戦って得たもの。このバケモノと一生付き合い続けるのは果たして幸福なことだろうか?
◇◇◇
「美佐緒! また作文に私のこと書いてる!もうやめてよ!」
小学五年生の時だった。二つ上の姉が私の部屋にノックもなしに乗り込んできた。いつも怒るから姉には見せない方がいいと言ったのに娘の作文が選ばれて浮かれてしまった母がまたうっかり見せてしまったんだろう。
「だって、お姉ちゃんのこと書くと学級文集に載せてもらえることが多いから。先生にすごく褒められたんだよ? それにそんなに恥ずかしいこと書いてないし」
「姉妹で掴み合いの喧嘩してるののどこが恥ずかしくないって言うの!」
「まあ、よく読んでみて? ね?」
姉はしぶしぶながらも私の作文を読んだ。姉とは喧嘩もよくしたが、彼女はいつも私に優しかった。
「確かに面白い。あれ? 私、こんなこと言ってないのに、よく分かったね。私の言いたかったこと」
「やっぱり、お姉ちゃんはこの時こんな気持ちだったんだね?」
「美佐緒は将来小説家になれるかもね。でも、私のことを作文に書くのはやめてよ」
「無理」
「こんのー!」
この時の姉の言葉に私は率直にそうかその手があったかと思った。しかしながら、自分のことを書くなと言った姉から自分の行く道を教えてもらったのはなんとも皮肉な巡り合わせではあった。
◇◇◇
学生の頃に首尾良く出版社の新人賞を受賞したが、ヒット作が出せず二十五歳の私は崖っぷちにいた。小説だけでは食べられなかった。編集者からは何度もプロットを返された。この人たちはもう私の本なんて出すつもりがないのかもしれないと絶望していた。それでもアイデアを何本も出しているうちに、ふと中学生の時にそんなに仲良くなかったクラスメイトの一人が「先生にいたずらをされた」と嘘をついたことを思い出した。彼女はクラスメイト全員に嘘つき呼ばわりされていた。でももし、彼女の嘘が本当だったとしたなら……。私の想像力は当時の空気をすぐに思い出してそのアイディアはすぐ通りミステリーの長編を書くことができた。そのミステリーがヒットした時、ようやく小説で食べていける目処が立ったと胸を撫で下ろしたのだ。
収入も得て見通しが良くなると、それまで疎遠になりがちだった同級生と連絡を取る気になった。初めて行った中学の同窓会で私は浮かれていた。夢だった小説家になれたのだとみんなに報告することができたからだ。中学時代、仲の良かった友人達と談笑していたら突然冷たい物を頭からかけられた。
「え?」
テーブルに置かれていた生ビールのピッチャーの中身を自分の上でひっくり返されたのだと気づくのには時間はかからなかった。それよりも故意に私に生ビールをかけた人物が誰だか思い当たらず戸惑っていると彼女は私に低い声で耳打ちした。
「知っていたなら、どうして?」
彼女のたった一言で私は全てを悟り戦慄した。私が想像し空想の末に作り上げた物語こそが「あの子」にとっては真実に近かったのだと。
私は彼女と話がしたくて振り返ったがもうどこにもその姿を見ることはなかった。
後に「あの子」はあれから数ヶ月後、自殺したのだと風の噂で知った。
◇◇◇
あの時のことは私に罪悪感を抱かせるに申し分ない出来事だったが、それと同時に私に創作に関する自負のようなものも抱かせた。ちょっとしたアイディアから僅かに目や耳に入ってきた人々の言動から自分が真実の物語を導き出せだという自負だ。
実際に私の小説には徹底したリアリティがあると評価されていた。
けれども私の小説は周りの人に多大な影響を与えてしまった。ある時は姉の婚約者の秘密を暴き、破談にさせた。姉には泣かれたが両親には感謝された。こんなことを何度か繰り返していくうちに真実が必ずしも幸福のために役立つわけではないということは痛感していた。でも、私はもう自分の中のバケモノに囚われてしまっていた。周囲の誰を巻き込もうとも、自分自身を犠牲にしようとも思いついた作品をこの世に生み出すこと、より現実に近づけた時に自分の中にふつふつと湧き上がる興奮に私は踊らされていくのだった。
◇◇◇
「もう、無理だ」
話がある。と言ってリビングで待ち受けていた夫は頭を抱えてソファーに座るとそう言った。
夫がそう言うのはこれで何度目だろう? 少なくとも三度目? もしかしたら四度目かもしれない。
「そんなに怒ることないでしょう? あなたやあなたの家族のことを書いてるわけじゃないって何度も話したのに」
私は今回だって夫は許してくれるとたかを括っていた。夫の兄夫婦の関係をヒントに書いた作品がドラマ化されたことがあった。ドラマの視聴率はとても良く話題作ともてはやされた。それをたまたま見てしまった夫の兄夫婦は離婚したけれど、その時も夫は許してくれた。
私たち夫婦の不妊、男性不妊をヒントに書いた時だって許してくれた。
「美佐緒は閃くと誰にも……。俺にも止めらられないことは分かってる。でも、俺は自分の両親が俺を愛していないことに気づきたくなかった」
最近書いたものは夫の両親の死と彼の幼い時の思い出話からヒントを得た家族の緩やかな愛憎劇だった。
「あの話に出てくる両親はあなたの両親とは性格が全然違うし、主人公も女性で明らかにあなたとは違う人物でしょう?」
「それでも、俺は気づいたよ。俺は自分の両親から愛されていなかったことに」
「そうね。そうかもしれない。でも物語というものはそういうものでしょう?」
私がそういうと夫は頭を掻き毟った。
「俺は最近美佐緒が地獄変に出てくる良秀のようになりはしないかと恐ろしくなるんだ」
私はカッとなった。
「私はあなたが焼け死ぬところを喜んで書くと言いたいの?」
リビングはしんと静まり返った。
それきり夫は帰って来なかった。
◇◇◇
「今回二度目のノミネートでの受賞となりましたが、受賞の一報を聞いて誰に最初に報告しましたか?」
記者の質問に私はかつての夫から言われたことを思い出した。元夫の言い分はある意味正しい。
見たことがないものは描けないと言ったために娘を焼き殺されてしまった良秀はそれでも地獄変を描き上げる。見たこともないはずの真実を書いてしまう私は周りの人を巻き込んでしまう。
それは一見すると正反対のことのようなのにとても近い。
まるでコインの表と裏のように。
二つに潜むのは何かを作る人間の性だ。
そこには恐ろしいバケモノが巣食っているのかもしれない。
私はきっとの自分の中のバケモノを満足させるために一生書き続けるのだろう。たとえ地獄の業火に焼かれるような苦しみがあろうとも私は私の地獄変を一生書き続けるのだろう。そのなんと孤独なことか。
「榊原さん?」
ぼんやりしていた私に、記者は問いかけた。
もう私の周りには私を「美佐緒」と呼んでくれる人は一人もいないことに思い当たりぐっと奥歯を噛んでから、私は記者たちの質問にこたえ続けた。
了
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