1人が本棚に入れています
本棚に追加
肥前国 鬼口伝
大猿、二丈ほどの身をぐわりと起こし、眼前の人間を見下ろす。
刀を携えた野武士があった。
鉢金はじめ、胴丸のそこかしこに数多の刀傷。草摺、大袖は見る影もなく破れている。
野武士は涸れ涸れの声で叫ぶ。
「見つけた……見つけた!」
大猿、欠伸一つして野武士に言う。
「人に見つからんよう山の奥のそのまた奥におるゆうのに、ようもここまで来たもんじゃなあ。何ぞ用かあ」
「頼みが、頼みがある……」
よくよく見れば、土気色の顔に青息吐息の風体。
立っているのもやっとなのだろうと大猿は鼻をふん、と鳴らす。
「儂を討ちにきた訳ではなさそうじゃ。けんど、頼みを聞く義理もないでなあ。山狗ぅ、喰っちまえ」
大猿が一吠えすると、背後の木々の中から野武士の倍はある四足の獣が姿を現した。ぎょろりと野武士を見据え、ぐるると低く唸る。鋭い牙は今にも野武士の肉を裂かんと剥かれている。
野武士、刀を握り、すぐさま己の左腕を切り落とした。
落ちた腕を山狗へ向かって蹴り飛ばし尚も涸れた声で言う。
「喰らわば喰らえ。この身も命も惜しくやあるか! 己には裂いてやりたい者があるのだ……!」
大猿、刹那、目を丸くし、その後に口の端きりきりと吊り上げ喉の奥でくつくつと嗤う。
濁と流れる血に山狗が飛びかかろうとするが、それを手で制して鋭く睨む。短く喉を鳴らし、山狗はその場に伏せた。
「仇討ちかあ。人間」
「ああ……」
「儂はひとたび里へ下りれば見境はないぞ」
「構うものか……清原の一族だけは必ずや根絶やしに……して……」
野武士、どうと崩れ落ちる。
「おうおう、事切れたか。怨みが濃けりゃあ、そのうち黄泉還るだろうよ。山狗ぅ。腕はありがたく頂戴しときなぁ」
野武士の腕を銜え、山狗、木々の裏へと消える。
大猿一匹、再び体を横にして、頬杖をついて野武士だったものを眺めた。
○ ○ ○
真夜中、真円の月に照らされて野武士、目を覚ます。
爛々と光る大猿の双眸、野武士を捉える。
野武士、戸惑いつつも己の身を見る。
切り落とした左腕はやはり無く、けれど傷口は塞がっていた。
大猿、野武士に声をかける。
「おうおう、よかったなぁ、仇討ちできるぞ」
「己は……?」
「黄泉還りを知らんかあ?」
ぐわりと顔を近づけ、野武士の身の内に怨み渦巻いている事を判じ、大猿、呵々と嗤う。
野武士は大猿の住処の気に当てられ、魑魅の類になった。土気色の肌はまさしく死人であるが、妖しく光る双眸は大猿のそれと同様だった。
黄泉路への踏みを強く躊躇う者だけが、現世へ還る。而して野武士は人である事を棄てた。
「人の理を外れた、いわば人外じゃなあ。人の法に縛られることも、しがらみもない。存分に仇を討つがええ」
「……有難い……」
「儂ぁなんもしとらん」
野武士の持つ刀がきちきちと鳴る。
野に晒されて多少錆は出て欠けもあるが、不思議と野武士の手に馴染んだ。
刀もまた、妖の地気にあてられて妖刀へとその身を変じていた。
「己が刀も、清原を討てと哭いている。疾く、野に下らんや」
「儂らも連れていけえ」
大猿、月下にひどく歪な、下卑た笑みを浮かべる。
仇討ちのおこぼれに預かろうという算段だ。
「儂と山狗を侍らせておけば、他の妖どもは寄ってこんぞ」
「……分かった。だが、清原の一族だけは譲らぬ」
「おうおう、人間の事情など知った事ではないが、仇は譲るともさ」
妖が人里に下りる際、名や特徴を知られる事を極度に嫌う。妖にとって、名や姿を知られる事は力を縛られることに他ならぬ。
そうでなくとも、白日の下に晒されでもしたならば塵芥となって消えるが定めである。
それ故、襲来の筆頭を野武士に据えて、自ら共は影から人を喰おうという腹づもりだった。
「山狗ぅ。里へ下りるぞう」
喜色めいた声で大猿が吠える。のしりと姿を現した山狗、野武士の前で脚を畳む。
「乗れ、というのか」
「おうとも、そっちの方が速いでなあ。山狗も、取り急いで人を喰いたいとみえる」
大猿と山狗を従えた野武士、風となって山を下る。
月、やや西に傾いで。輝き、白銀から妖の眼が如き黄銀へと変じていた。
○ ○ ○
その晩、草木も眠る丑三つ時に里へ下りた一体の人外と二体の妖。
人の性質を外れた野武士、夜目も効くが、顔は驚愕のまま動かない。
視界に写るは自らが知る土地の風景とは似ても似つかぬもの。
平野は広がり、家々の柱骨は知るものよりも遥かに大きく、何より合戦の跡が微塵もない。
「ここは……どこだ……」
「黄泉還るまで、ずいぶん寝ようたからなあ。人間はすぐにちまちま増えよる」
「どれだけ寝ていたのだ! 己は!!」
野武士、激昂する。
のこされた片腕、そこに握られた刀を里に向ける。その切っ先はかちかちと震えていた。
「己の知る里ではないぞ!」
「さて……どれほど寝ておったか。百年は過ぎよったと思うがなあ」
大猿、事もなげに言い放つ。
「仇は、己の仇はどうなる!!」
「命短し人の都合まで、預かり知らぬなあ」
「己は……己は……ッ!」
刀、打ち震えてひとつ、甲高くきいんと鳴く。
それはどこか鳥の鳴き声の様でもあった。
「おう、その刀、斬りたい奴があるようだぞう」
「……そうか……子孫は、残っているのか……」
野武士、ひゅうと一つ息を吐き、黄銀の月を仰いで瞠目する。
「鏖殺すべし……!」
一人鬨の声を上げ、灯りの消えた家々へ向かって駆けた。
手近な場所にあった家屋の木戸を蹴破り、家人が何事かと飛び起きる前に寝間へ押し入り布団へ一突き。
並んで寝ていた家族らが事情も知らずに何事かと身を起こすが、状況を把握する前にその首は悉く胴と離れていた。
駆け出た野武士、刀を握る。
並び在る家々をぎょろり順々と睨めつけていくに、あるところでまたも刀がけえん、と鳴いた。
「次はそこか……!」
野武士、すぐさま身を低くして地を蹴り、新たな家の門戸を破る。再び、惨殺。
家主一家諸共を斬り伏せて次なる狙いを刀に訪ねんとするに、奥の間から下人の男が一人。
「ひっ! も、物盗りぃ!」
月に照らされる部屋の中で、てらてらと血の海が広がり臓腑の臭いが下人の鼻をつく。
腰を抜かした男に刀を向けるが、刀には変化なく、野武士、これは清原の血を引くものではないと判断した。さにあらば、取りたてて斬る理由もない。
刀を降ろして次へいかんと踵を返せば、下人の男、大きく安堵の息を吐く。
そこへ障子を突き破る豪風が一陣。ごう、と音鳴りをさせたそれは下人の肩から上を喰いちぎった。
「残すんなら、儂らが喰らうでなあ」
外からのそりと大猿。抜けた風の正体は駆け込んできた山狗だった。
「好きにしろ。己はもう、人など、世など、どうでもよいのだ。ただ、清原の血を絶やすのみ」
「気張れ気張れえ。しかし、ちと暗いのう」
「……己もお前も、すっかり見えていると思うが」
「ああ、確かに儂らはええ。けんど満月と言えども人間どもには暗かろうて。逃げる所を後ろから喰らうのがおつなのよ。どら、火でもつけようかい」
ぎたぎたと笑って奥へ消える大猿を一瞥し、野武士、刀の鳴き声に導かれるまま家々を巡ってはその隻腕に握られた刀を振るっていく。
やがてあちこちで火の手が上がり始め異様な事態に気づいた人々は我先にと外へ転がり出て怒号か叫び声か判断のつかぬものを喚く。
次第に増えていく人塊。
連れ立って逃げようとする男女の、手を繋ぐ様。
先を走る男がふと振り返るとそこに女の姿はなく、ただ手首から先を持っているのみ。
声にならぬ男の叫びを合図にしたかのように物陰から大猿、女の肉を喰いちぎりながら立ち出でる。
こと切れた女の体を男に叩きつけ男の骨身を砕き、ぶし、と飛び散る返り血を舐めとる。
頭を捩じ切り、髪で腰に結わえてそれらが揺れるのを楽しんだ。
「いやあ、愉快、愉快」
月は、火煙にくすんでいる。
○ ○ ○
野武士、方々で人を斬り、ひときわ大きな屋敷の前に立つ。
漆喰の壁に囲まれた屋敷の中に、斬る相手がいると刀が鳴く。
すでに騒ぎの声は屋敷まで届いており、慌ただしい雰囲気があった。
山狗の遠吠えも聞こえてくる。屋敷以外の者はおおかた狩りつくしたのだろう。
壁を乗り越え屋敷の中に入り、騒ぎ立てる者々には目もくれず寝所を目指した。
障子を斬り破れば、その先から剣閃が伸びてきた。
すかさず刀を上げてそれを受け、数歩分飛び退く。
「バケモノめ! 成敗してくれる!」
「……その顔……」
刀が鳴かずとも分かる。かつての仇に瓜二つのその顔、野武士が忘れるはずがなかった。
「清原……清原ぁぁぁ!!」
野武士、首を狙って刀を突く。半身で躱されたがすぐさま刀を薙いで斬ろうとするも、子孫の刀身がこれを受ける。
野武士、力のままにこれを押し、刀もろともにどう、と子孫を倒す。すかさず圧し掛かり腕に刀を突き立てる。
苦悶の叫びが上がるが、野武士、二度、三度と突き立て、ついにはごぞりと骨を断った。
「己の妻子は、もっと痛かったに違いないのだぞ……!」
「は、話が分からぬ……!!」
脂汗を浮かべ、痛みに灼かれながら、絶え絶えに子孫が言う。
野武士、もう一方の腕を撥ねておもむろに立ち上がった。
「分かる必要もない。ただ絶えね。貴様の冥土に土産はいらぬ」
過たず、眉間に一閃、頭蓋を貫き通す。
子孫の体、びくりと一度大きく跳ね、そして動かなくなった。
火の手は終に屋敷にも絡む。
野武士、庭石の上に座り天を仰ぐ。
月、さらに傾いで、濃赤色。東の空はややも白みはじめていた。
終わったのだ。
自らの妻と、子の仇は討った。もはや、細かな経緯は思い出せなかった。ただ怨の一念のみにて突き動かされ、事を為したが故に動く道理も無くなった。
野武士、このまま、ここで火に巻かれるのだろうと呆けた顔をしていた。
天地がぐらりと反転する。
己の首を斬られたのだと判じるまで数瞬を要した。
ごろり、ごろりと視界が回る。
転がった頭は何者かに掴まれて地面に置かれた。
「大猿か。己を喰らいにきたか」
「いやあいやあ。人の身を外れた奴の肉など喰いとうない。儂はただ妖刀を奪いたかっただけよ。ついでに試し斬りもしてみたくてなあ」
にたにたと嗤う大猿に対し、野武士の顔は穏やかだった。
「そうか。好きに使え。己はもう全て済んだ」
「けえっ、事の後かよ。苦悶の顔が見たかったいうに、斬って損したわい」
「己はここで日に照らされるのみ」
「周りは全部喰ったで、そんなら儂らの事を伝える者はおらんな。身を明かすなど、妖にとって三流よ」
大猿、山狗を呼びつけて火の手上がる屋敷から立ち去る。
血のように濃い月は沈み、東から茜射す。
野武士、しかと目を閉じ霞と消える。
乾いた返り血のついた鉢金のみ、朝の光を受ける。
○ ○ ○
役人の前に、坊主が一人。
数日前に起こったバケモノ騒ぎ唯一の生存者である。この坊主からなんとか話を聞けと上役からの達しを受けて役人ども話を聞くが、拙い言葉で語られるそれらは今一つ要領を得ず、ほと困っていた。
「わしゃあ、鬼ん所におったんじゃあて。それを、助けてもろうたんじゃ」
「親はどうした」
「口減らしに売られたんじゃ。親なんぞおらんわ」
そして清原の屋敷での待遇はとてつもなく酷かったという。
「はあん、そいで、獣か何かが来たんか?」
「屋敷の外で筵にくるまって震えとったんじゃ、なんも見てねえ。けんど……」
「けんど?」
「雉の声はしようた。その声を合図に誰かが駆け行きよったんは分かる。あと、犬の声もしたぞ」
「犬のう。野犬の仕業にしてはどうにも惨い……」
「おお、あと猿じゃ!」
「猿?」
「樹の上を飛び跳ねて逃げて行きようた! 腰に団子もぶらさげとったぞ!」
役人、頭を掻く。上役にこのような話を伝えても良いものかと悩む。
「ともかくじゃ! 鬼みてえな屋敷のやつらあ、斬って懲らしめてこれたんじゃ! ありがてえもんじゃ!」
そしてある役人の家に世話になることになったこの坊主、生涯この話を口伝で残したという。
鬼の住処に、犬、猿、雉を率いて退治に向かう英雄の物語として。
最初のコメントを投稿しよう!