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PAX 3:小学校児童
目が覚めたとき、男の子は「頭がぼんやりしている」と感じた。
食欲がなく、朝食を食べられなかった。
体調不良を訴えると、母親はおでこに手を当てた。
「ほんのすこし、お熱があるかな。計ってみようね」
体温計には「36・8」と表示された。
母親はスマホを操作して、小学校の登下校管理システムへ状況を報告し、ついでに病院の予約をとった。
男の子の前にしゃがみ込むと、「これから熱が上がるかもしれないから、学校はおやすみね」と、口にした。
「ママは今日、お仕事で会社に行く日なの。だから、こうしましょう。駅前の病院でお医者さんに診てもらって、ママの仕事が終わるまで待っていてくれる? 午前中でお仕事終わりだから、一緒にカフェテリアでご飯も食べられるでしょ。新型ノロウイルスとかじゃなければ、病院の図書館やプレイルームを自由に使わせてもらえるし」
考えてもみなかったアイデアに、男の子が元気よくうなずく。
母親は目を細くした。
「途中までは一緒のバスで行けるわ。ママは先に降りるけれど、終点のバス停には小児科の看護師さんが迎えにきてくれるから。前にもそうしたでしょ」
男の子は会社に行く母親に向かって、元気よく手を振った。
ところが、バスが走り出してしばらくすると、急に具合が悪くなってきた。
吐き気がそろそろ、我慢できなくなってきた。
通学カバンに入れておいたビニール袋を取り出し、口を広げてひざの上に置く。
熱がさらに上がったのかもしれない。
頭がぼうっとしてきた。
自分でも分かるほど、ほほが冷たくなってくる。
胸の中がドロドロになった気分だった。
つらくて顔を上げていられない。
背中を丸めて両腕の肘を膝につけ、必死に吐き気をこらえた。
近ごろ流行している、感染力が極めて強い「新型ノロ」が脳裏をよぎった。
感染拡大に誰もが神経を尖らせている時期だから、男の子がバスの中で嘔吐したら、大変な騒ぎになるだろう。
そのとき、黒いジャージを着た男性が席を立って前方へと移動した。
男の子はほっとして、喉元までこみ上げている、げっぷのような「ガス」を抜こうと口を開いた。
胃がぎゅっと絞られる。
ガス以外に、液体も口から出た。
半分ほどはビニール袋の中におさまったが、一部はズボンを汚し、残りのほとんどはバスの床に落ちて広がった。
男の子はハンカチを取り出して、あわててズボンと座席を拭う。
吐き気をこらえながらの作業だった。
バスの中で起きていることや、足下に落ちた液体が前方に広がっていくことには、まったく気が回らなかった。
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