PAX 5:被害女性

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PAX 5:被害女性

危ないところだった。 女性は、「ほっ」と胸を撫で下ろした。 あとすこしで黒いジャージの男はセーターを脱がせにかかるか、腰より下に手を入れようとしてきただろう。 そうしたら緊急行動を取らざるを得ず、すべてが台無しになっていた。 腰に巻いた自爆用のベルトと鞄の中のプラスチック爆弾は、他人に見られて良いものではなかった。 もし見つかったら、不本意ながら騒ぎになる前に起爆するしかない。 女性は仮面を被った男性に感謝した。 車椅子に座って障がい者のふりをしていた変な人物だが、犯罪を見逃さない正義の心を持っているようだ。 終点のバス停到着時に爆発に巻き込んでしまうのが、申しわけなく思えてくる。 「ありがとう。でも、ほんとうにごめんなさい」 男性が親指を立てているのを見て、思わずつぶやいた。 あと10分、計画を中止する気はない。 彼女の人生をめちゃくちゃにした全自動運転無人運行コミュニティバスに対する復讐は、必ず実行されなければならないのだ。 女性の父親はバスの運転手であった。 会社から無事故無違反で表彰されるほどで、「社内で最も技能優秀で、最も意識が高いドライバー」と呼ばれていた。 だが、「中型以下のバスは自動運転が望ましい」という国の方針を受け、会社がコミュニティバス運行から撤退すると、長年やってきた中型バスの職を失うことになった。 父親は不慣れな長距離大型バスの運転をするうちに、点数の低い交通違反と軽度の接触事故を何度か起こし、定年退職を待たずに失職した。 女性の兄は工業大学を出て、自動車メーカーに入社した。 大型車両開発部門で自動運転の車両搭載OS開発に携わったのは、彼が一人前になったのを確かめ、安心したかのごとく他界した父への鎮魂であったのかもしれない。 ところが近年の全自動運転車による交通事故増加や無人運行路線バス内でのトラブル深刻化により新規需要が落ち込み、メーカーは同部門から一時撤退することになった。 兄はAI開発部門への異動を希望したが聞き入れられず、営業部門で神経をすり減らすと、うつ病になって出社困難になってしまった。 女性は父を全自動運転無人運行バスに奪われた。 敬愛していた兄が「うつ」の引きこもりとなったせいで、交際していた男性との結婚をあきらめざるを得なくなった。 これから起こることは彼女自身の復讐であり、父と兄の敵討ちでもある。 鞄に入れた時限爆弾は、バスが終点に到着する時刻に作動するようにセットされていた。 定時運行がウリのコミュニティバスは、人が集まる中央駅前で吹っ飛ぶだろう。 時限装置が作動しない場合、腰に巻いた自爆用爆弾のスイッチを押せば、鞄の中の爆弾も起爆する仕組みだ。 女性としても、罪のない大勢の人々を巻き込むことは心苦しい。 具合の悪い小学生や仮面の男性はもとより、黒いジャージの痴漢でさえも、巻き添えにするのはかわいそうだ。 だが最前方で子どものようにはしゃいでいる老人だけは違う。 完全自動運転コミュニティバスの開発および導入に尽力した父の仇であり、かつて兄の会社で開発部門のトップをしていた男であった。 全ての責任を負うべき男に責任をとらせ、同時に無人運行と無人運転の危険性を世間に知らしめるのが、彼女の狙いだ。 あと10分たらずで、目的は達せられる。 そして、おしまいがくる。
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