白い蝶の毒。

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とある日、街は狂気に呑まれた。 あるものは自分の目をスプーンで抉り あるものは自分の体を切り刻み あるものは自分の内臓を美味しそうに食べ あるものはそんな知人を笑い あるものは千鳥足でガラスに頭から突っ込み あるものは嬉しそうに、愉しそうにその現場を見ていた  意味がわからない。 なぜ突然、日常が壊れたのか。 なぜ突然、人々が狂気的な行動をしはじめたのか。 なぜ誰も、止めようとしないのか。 血潮が道を濡らし、内臓や肉が散乱する。 血肉の甘く金臭い匂いと、内臓に残っている糞尿や体液の匂いが混じりあい吐き気を感じる前に吐いていた。 胃のなかが空っぽになっても、胃液がでなくなっても吐き続けた。 「おや、まだ生きている人間がいるなんて思っても見ませんでした」 おや、驚いた。と愉し気なのを隠さない声にふりかえるとガスマスクをした白衣の男がひとり立っていた。 「だ、れだ……」 胃酸で爛れた喉はひりつき、鼻の奥は痛みを取り越して熱く、食道から繋がる管は存在を主張している。 「ぼく?ぼくは……そうだなー。『白蝶』って呼ばれてるよ」 白い蝶の形したお花でね、かわいいんだよ。と男は愉しそうに謳うように答えた。 「これは、どういう状態なんだ?なんでみんないきなり……っ、いきなり……」 一気に血が頭にのぼり、事情を知っていそうな白衣の男に叫ぶように問いかけ、情景を思い出してまた吐いた。 「威勢のいいことだ」 とてもいい、とてもいいぞ!と白衣の男がまた嬉しそうに言った。 「これは実験だ。実験。わかるかい?ぼくはね、とある薬物を研究しているんだ」 やはり、男は愉しそうに楽しそうに、狂っている。 取り出した紙袋は街中の人間がよく食べていたファストフードの店のロゴが入っていた。 だからね。ぼくは、君に注射をするよ。と顔の見えない白衣の男は確かに笑っていた。 プスリと首筋に痛みがあった。 「ぅあ、ぁぁぁああああぁぁぁあああああ!!!!」   液体が身体に入る感覚はわからない。だが、『五感』は如実に変わった。  景色の色が変わった。 青い空は赤黒くなり、死体だったものはぐちゃぐちゃしたなにかになり、うごめいているようにみえる。解れた筋肉の繊維が風にあたっているのか、それともまだ筋肉に力が入るからか、動きと共に血が小さな噴水の様に飛び出して、また違う場所から飛び出して滴っている。  味覚が変わった。 空気に溢れる鉄と腐敗した肉の甘苦いく酸っぱい味が、最近食べたなにかの味を思い出させた。  匂いが変わった。 血肉の甘く金臭い匂いと、内臓に残っている糞尿や体液の匂いが混じりあい吐き気を感じる臭いは甘く芳しいく、よだれが溢れてくる。「美味しそう」だなんてあり得ないという理性と、「喰いたい」という本能が入り乱れて喉が渇く。 知っている匂いだった。 知っている。美味しい匂い。 味と共に記憶を焦がしていく。  聞こえるものが変わった。 殺された者の、殺した者の、世界の叫びで耳を壊され、頭のなかがぐちゃぐちゃにされるような痛みと恐怖に平衡感覚を失くして膝から崩れた。 「あぁ、ダメだよ。こんなところで崩れたら」 歪で崩壊した世界でも白衣の男の声だけは明瞭に聞こえてくる。  唐突に記憶が甦った。 この匂い、味は街中の人間が好んで食べていたファストフード店の人気商品と同じだった。  自覚した男は、吐き気も恐怖も嫌悪感も感じる事はできなくなった。 「ぁ、ぅぁ……」 呼吸をする事すら難しく、焦点の合わない視線を左右前後に揺らしている。 「ふむ。微調整が必要か。なかなか難しいものだなぁ」 ごぽり、と泡状になった赤黒い血を吐き出しながら痙攣する男を興味が失せたように捨てて白衣の男は嗤った。 「食事に混ぜてもダメ、筋肉注射もダメ、静脈注射もダメ……ダメ、ダメ、ダメ、ダメ……どうやったら上手くいくんだろうか」 うぅん。と頭をひねる。  足元には赤黒い血溜りと黒ずみ、自ら裂いた腹を見せる死体や内臓が口から出ている死体がゴロゴロしている。 「あぁ、ファストフード店の料理に薬物を入れるのは得策だったなぁ」  薬物の効き目を診るのにも、病症を診るのにも丁度よかった。 「注射はダメだ。もっと薄めた方がいいかな」  痙攣する男の服を剥ぎ、懐からメスを取り出して白い皮膚を剥ぎとっていく。丁寧に丁寧に剥ぎ取りながら血抜きもする。 「でも、この人は長く呼吸をしているからなぁ。血が出やすいから楽だけど、痛覚がないのって便利かも」 か細く浅く繰り返す肺の動きにあわせ、息を吸うときは勢いよく、吐くときはゆっくりと緩急をつけながら血液が体内から抜けていく。  痛覚のない兵士とかいいよね。あぁ、でもすぐに死んじゃうかな。そこら辺は考えなきゃダメだけど、楽しそうだな。と鼻歌混じりに次の実験について思考する。 「うーん。被験者を増やさないとダメだな」 丁寧に丁寧に皮膚を剥ぎ、肉を剥ぎ、毛髪や爪などの異物が混入しないように密閉袋に納めた。食べ物に異物混入はだめだからね。と白衣の男は笑っている。 「……ふふ、また新しい実験場を探さないとねぇ」 他にもいるかなぁ。と白衣の男は愉しそうに保冷ボックスの中に密閉袋を入れて歩きだす。きょろきょろと視線を巡らせるが動く個体はいなさそうだ。 少し残念に思いながら歩みを進める。 「病さえ発症しなければ、人間は増えるばかりの人間食べて生きていけるだろう?だからね、僕は薬を造るんだ」 そうしたらいい感じに人間の数も減って万々歳だよね!と白衣の男は謳うようにやはり笑った。 甘く甘く生臭い死体の海をかきわけて、立ち去った白衣の男の所在は誰も知らない。 とある日、街は業火に焼かれた。 近隣の街の住人は云う この頃、あの街はおかしかった この頃、あの街の友人はおかしかった この頃、あの街は異臭がした この頃、あの街から奇声が聞こえていた この頃、あの街は…… あの街が、住人が、焼かれて良かった。 そう、口々に囁いていた。
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