【おまけのSS】似た者同士 

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【おまけのSS】似た者同士 

   長屋の家の腰高障子を開けても、いつも実が帰るなり飛んでくる春四郎の姿が見えなかった。  そう言えば今日春四郎は、手習い所で親しくなった母子衆と、花見兼潮干狩りへ出掛けたのだと思い直し、実は肩に担いだ銛竿(もりざお)を土間へ放ると、上り(かまち)へどかりと座った。  この千本松町の裏店へ春四郎と移り住んで、約三年。 前髪を剃り上げ、月代姿になった実も大分漁仕事に慣れて来た。 今実が生業としているカジキの突きん棒漁は、春から夏の昼間仕事で、漁が終ったのは夕七ッ(夕方五時)。  いつもはこの時間家へ戻ると、米の炊ける匂いが道端まで漂ってきて、戸を開けた途端、春四郎の笑顔が真っ先に眼に飛び込んでくるのだが―  今日は盆の上に伏せられた二つの茶碗が、何処か寒々しく実の眼に映った。 「へっ、しんみりするない。こんな時こそ独り身を満喫しなくちゃ、だろ」  実は自身を叱咤するようにかぶりを振ると、勢いよく居間へ飛び上がり、茶箪笥の中から徳利を取り出した。  そんな若いうちから飲み過ぎるな、と春四郎がうるさいから何時もちびちびとしか飲めないが、今日は誰に咎められる事なくのびのびと酒を堪能できる。 ―そうだ。よく考えたらこの長屋で一人で居ること自体、初めてじゃぁねぇか?  実が家へ帰ってから、再び漁場へ行く時間になるまで、春四郎は実から片時も離れない。いつも何処かしら実に身体をくっつけて、本を読んだり、着物を繕ったり、急に実の顔を覗き込んでは、笑いかけてきたりする。 「‥‥ったく、甘ん坊で仕方ねえったら。アイツ、俺が居なくなったらどうするよ……」  実は苦笑いしながらお猪口の酒をグイ飲みすると、珍しくしんと静まり返った部屋を見渡した。  九尺二間の、典型的な割長屋。  つい数年前までお屋敷のお武家さまだった春四郎からしたら、昔住んだ屋敷の物置の半分、いやそれ以上の狭さだろう。  春四郎たっての希望で、海の側に部屋を借りたまでは良かったが。身銭のない実が選べたのは、この狭くて汚い裏長屋の他に無かったのだ。 春四郎は、この家をどう思うだろう。 実との新しい生活に、急に不安を覚えるのではないかーーー 「…ところがアイツは、俺に連れられてここへ入った途端、飛び上がって喜びやがった。これなら『実が何処に居ても、すぐわかる』だとよ」  その後も、二人で一枚の穴だらけの夜具の中では温かいと笑い転げ、焦げた釜の飯を食っては「こんな美味しいもの食べた事が無い」と眼を丸くした。  訳あり風の男二人を好奇な眼で見る隣近所(となりきんじょ)も多く居たが、春四郎が心底長屋暮らしを楽しむさまに、いつしかその眼に慈愛が含まれる様になっていった。  実が漁に出ている間、春四郎が長屋の空き屋を使って手習い所を開いているのも、春四郎を慕う長屋住人たっての希望によるものだ。  その評判はこの長屋に留まる事なく、今では隣町の子もちらほら増えて来たと噂で聞いた。 「あの甘ん坊が、今や巷で大人気の春先生だもんなァ。本人はどこ吹く風だけどよ」  この間家に潮干狩りに誘いに来た十二、三の娘は、きっと春四郎に惚れてるのだろう。今みたいな夕暮れ時のように頬を染めて、あの時も春四郎をジッと見ていた。  実は急に尻の据わりが悪くなったのを感じ、おもむろに腰を上げた。  せっかく独り酒を楽しめる機会なのに、どうしてこんなに酔えないのだろう。頭を無にしようと努めても、すぐ春四郎のことばかりを考えてしまう。  そうだ何か違う事で気を逸らそうと、実は部屋の隅に積み上げられた書物を手に取ったが、また春四郎を思い浮かべてしまって、結局開くのを断念した。  チッと舌打ちをした実は、草履を引っ掛けて表に出た。  聞きなれた波音と共に暮れ行く夕日が、実の胸を締め付ける。  「アイツが居ないと駄目なのは、俺の方じゃねぇか…‥」  六つの時に母を亡くしてから、ずっと独りで生きて来たのに。  今はたった一日春四郎が居ないだけで、こんなにも孤独で淋しい。  あの日、足高山の屋敷から春四郎を連れ出して以来、ずっと自分が春四郎を助けてやったと思い込んでいた。  ところが蓋を開けてみたら、このザマだ。  こんなに沢山の愛情を貰った実は、もうきっと知らなかった頃に戻れない。  もうきっと今の実は、春四郎が側に居てくれないと生きて行けない。  実が鼻を啜って、足元の小石を蹴った時だった。  旋毛の先に自分の名を呼ぶ声がして、実はハッと(おもて)を上げる。 「実…!実…!」  春四郎が夕日を背に、笑顔で実に大手を振っているのがはっきり見えた。  実は草履が片方脱げたのも気にせずに、一目散に春四郎の元へ駆けてゆく。  この世で一番愛しいひとを、この胸に強く強く抱きしめに行く為に。
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