兄の心根…春幸視点

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「…故に昨夜、あの娘御(むすめご)が男と茶屋を後にした所を捕まえて、殿(春幸)からの書状を手渡した所―その場で眼を通した娘御は蒼白し、すぐさま御老中(父上)例の件(・・・)を掛け合うと申しておりました」  抑揚のない声でそう伝えた柿渋色の装束姿の男が、片膝をついて深く(こうべ)を垂れた。  男を取り巻く空気は静寂で、見ようによっては物々しく感じるが、目元まで覆われた頭巾から見える眼光は鋭く、それは忍び特有の奇矯(ききょう)さを思わせる。  榎本春幸(えのもとはるゆき)はこの忍びの男…重蔵(じゅうぞう)を、榎本の隠密として使い始めて七年ほどになるが――未だこの男の心根が処々読み取れずにいる。  だが、決して容易でない任務であろうと、毎度非の打ちどころの無い辣腕を振るうこの男に、春幸が誰よりも信頼を置いているのもまた確かだ。  重蔵は、足高山を拠点として活動していた忍び集団―忍野(おしの)組の隠忍、繁蔵(しげぞう)の息子に当たる。繁蔵は元々祖父、春之進に仕えた隠密で、時世の流れで組が解散になった頃、半ば拾われる形で祖父に仕える様になった。 …それから十数年、繁蔵は祖父の側近としてかいがいしく仕えてきた様だが、祖父亡き後、あれだけ居た家臣のうちたった一人追腹(おいはら)(君主亡き後、家臣も後を追って死ぬこと)を遂げ、繁蔵も程なくして亡くなった。  その忘れ形見である息子、重蔵に初めて会ったのは―…祖父が亡くなる少し前の、あれはもう祖父が長くないと家中で噂になっていた頃の事だ。  病床についた祖父に呼ばれて足高山の屋敷(隠居屋敷)へ赴くと、総髪で作務衣姿の美しい青年が、春幸の姿を目にするやいなや跪いてきた。 …それが重蔵であり、それから幾年月―重蔵もまた父繁蔵が祖父に仕えたのと同様に、春幸に恨み言一つ言わず黙々と仕えてきてくれた。 「うむ。あの娘が我が家の家禄を据え置くよう懇願すれば、御老中もくだんの件に関してこれ以上つついてはこぬだろう。何せ眼に入れても痛くない程可愛い一人娘たってのご所望(・・・)だ。これでひとまず榎本の家格は安泰だな」  春幸は皮肉げな笑みを湛えると、懐から扇子を取り出し、座った姿勢を寸分も違わず手首だけを使って扇子を扇ぎだした。  そのさまはまるで舞手の手捌きの如く優雅で美しく、更に端正な面持ちと相まって―(せん)まではひと癖あった面持ちが、たちまち高貴な様子にさま変わりした。  春幸は両家の顔合わせの際、兄である自分にも媚態をつくる老職の娘御の様子が鼻についた。  初心な春四郎は全く気付かなかった様であったが、その頃から常々老中の娘を重蔵に張らせていたのだ。  暫くすると案の定、老中の娘には数多の男関係が浮かび上がり、その仔細を春幸が全て文にしたためて―此度その書状を、男と茶屋から出て来た娘に直々に重蔵に手渡させたのである。 「今日は、また随分と蒸すな…」  春幸が忌々しそうに扇子をあおぐと、扇子の持ち手に付いた鈴の音が、春幸の書斎である小書院(こじょいん)に鳴り響いた。 六月に襖を全て締めきったこの部屋は、夜だというのに蒸し暑い。 重蔵は確かに榎本の隠密だが、春幸はしばしば外部の者だけでなく、内部の者―つまり榎本の家臣や親類の動向も重蔵に張らせているので、榎本の人間で重蔵の存在を知る者は殆ど居ない。 それゆえ、毎度重蔵と落ち合う時は部屋を密室にせねばならぬ為、春幸は少々気詰まりだった。 重蔵のその鋭い眼が、自身に向けられるとどうもバツが悪いのだ。
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