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…あの時―
春四郎が離縁されて再び榎本へ戻った時―榎本に春四郎の居場所は既に無かった。
今までは部屋住みの春四郎を歯牙にもかけなかった者達が、この件を皮切りに春四郎を榎本から排斥しようと動き始めていたからだ。
榎本には祖父と昵懇の間柄にあった親類や家臣が未だ多く居て、その過激派が榎本の家禄が再び削られる事態に過剰な反応を示していた。それにより(重蔵の証言から)春四郎の命に危険が及ぶと判断した春幸は、春四郎の身柄を何処か違う場所に移さねばと考えたのだ。
しかし家長である春幸が春四郎に肩入れしたと周知されると、過激派を益々助長させる事になる。ならばと春幸が一芝居打って、春四郎をわざと追い込む事で、自ら榎本を出奔するよう仕向けたのだった。
殆ど家を出た事のない春四郎が行く所といえば、隠居屋敷くらいなのは明白だったし、そこで春四郎が嘘でも切腹を遂げたと知らしめれば、周囲は納得するだろうと春幸は踏んだ。
だが実際は、春四郎が本当に腹を斬らぬよう重蔵に見張らせて、暫しの間あの屋敷で春四郎をかくまうつもりでいた。
「真だぞ、重蔵。拙者は本当に、そのつもりだったのだ…」
もう既に居ない重蔵に言い訳めいた呟きをしていると、突如部屋の襖が勢いよくスパンと空いた。
「ちちうえ!聞いて下され!」
寝間着姿の息子の春太郎が、春幸に勢いよく抱きついて来る。
「それがし、平家物語の冒頭をソラで言えるようになりました!」
眠いのだろう。春太郎のどんぐり眼の目の淵が真っ赤に染まっている。
それでも父に褒められたくてわざわざここまで来たのかと思うと…先ほどまでの殺伐としていた胸の裡が、幾分収まったような気がした。
―もう忘れよう。私には春太郎が居るではないか…
そう思うよう努めたのに、春幸の脳裏には幼い時分の春四郎の姿が再び浮かび上がる。
春四郎もよく書物の一節をソラで言えるようになると、こうやって朝晩厭わず春幸の居場所を探し当てては部屋へやってきた。
その時の褒めて欲しくて上目遣いに春幸を伺う春四郎の面差しは…血を分けた幼い弟のものだと分かっていても艶めかしく、春幸の心の臓はその度に尋常でないほど高鳴った。
「ちちうえ?」
穢れを知らぬ春太郎の眼が、物思いにふけっていた春幸の顔を覗いてくる。
春幸はハッと我に返り、慌てて居住まいを正すと、春太郎に笑顔を見せた。
「よし、ではさっそくお手並み拝見としよう」
よしよしと頭を撫でてくれる春幸を見て、春太郎が満足げに笑った時だった。
長廊下の向こうから、大八車を引いている様な轟音が屋敷中に鳴り響く。
その聞き覚えのある足音を感じ取った春幸は、ふう…と深いため息を漏らした。
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