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「今度はこいそか…」
こいそは榎本が上士の頃に使っていた婢女で、当時は春幸の乳母だった。こいそは足高山近くの桑原村の出で、実家は米問屋を営んでいたが、相次いで父母、翌年兄も病で亡くすと、自身が店の跡を継ぎ、仕事が軌道に乗るまで一時は暇を取っていた。
だが四十も過ぎた頃になると、店は若夫婦が主になり、こいそは再び榎本に仕えるようになった。それ故こいそには今、今度は春太郎の世話役を担って貰ってはいるのだが――何せ親子二代、揃いも揃ってこいそが余り得意では無かった。
恰幅が良くさっぱりとした気性の女と言えば聞こえがいいが、春幸からすれば単に太っていて気が強いだけの女だ。しかもそれに年増女特有の口煩さが加わり、春太郎もほとほと参っているようだった。
ならば家長であり春太郎の父でもある春幸がこいそに一言物申して、誰か違う世話役をあてがってやれば良いのだが―何せこいそは生前の祖父の贔屓だったので、どうしても強く出られない自分が居た。
…それは亡き祖父の意志を自分も継ぎたいからだとか、決してそんな高尚な理由ではない。むしろ春幸は、昔から何かにつけて頭ごなしに叱ってくる祖父が大嫌いだった。
だが生前春幸にだけ見せた、祖父の人ならざる者の如き冷徹な―そう…まるで碁石の様な光の無い眼が、今でも春幸を物陰からジッと見ている様に思えてならない時がある。
故に未だあの眼に対して恐怖心を払拭できていない春幸は…つい生前の祖父が好むであろう行動を無意識に取ってしまうのだ。
何故かその時だけは…己が与り知らぬ所で何者かに操られている様な気がして――春幸は畏怖の念を抱きながらも、自身ではどうすることも出来ずにいた。
「まずい、こいそに見つかる!」
春太郎は即座に春幸の元から離れ、春幸の後ろの屏風の裏に身を隠す。
春幸は、あ…ッと声を上げそうになったが、すぐさま敷居の前にこいそが現れたので、春幸は何とかこいそを撒く事で直ぐ手一杯になってしまった。
***
「…春太郎、もう出てきてよいぞ」
こいそがやっと納得してここを去ったので、屏風の影からこちらを伺っていた春太郎を手招きした。すると、見る間に満面の笑みを浮かべた春太郎が、春幸の懐に飛び込んできた。
「ちちうえ、かくまってくれてありがとう」
「子細ない。私も子ども時分、こいそから逃れるのに苦労してな。其方の気苦労は、父上も多少なり分かってやっているつもりだ」
苦笑いしながら春太郎のすべやかな頬を撫でてやっていると、不意に春太郎が真顔になった。
「ちちうえ…一つ聞いてもいい?」
「どうした?」
「なぜ屏風の後ろにあんなに沢山の刀傷があるの?以前ちちうえとかくれんぼをした時は、あんな傷なかった…」
春幸の手が、一瞬止まった。
純粋無垢な春太郎の眼差しを直視できず、春幸が俯くと、少しして紅葉の様な両の手が春幸の頬をふんわりと挟んだ。
「ちちうえ、刀をそんなふうに使ってはだめだよ。こころがくるしくてつらい時は、おこるのではなくて泣くものなのだ、と父が春太郎に申したのではありませんか。だから春太郎は叔父上が居なくなった時、周りの者に強く当たるのは辞めにしたんだ。けれどいっぱい泣いたよ。それがしのなみだがもう出ないというくらい…そうしたら少し、心もちがすっきりした」
「……」
「だからちちうえも、辛い事があったのなら泣けばいい。このことはぜったい他言しない。男どうしのやくそくだから」
そう言って春太郎は慈悲の笑みを湛えながら、春幸の月代をゆっくりと撫でた。
その刹那、春幸の目から見る間に涙が溢れ、青白い頬に雨垂れのような筋が幾つも伝った。
「はっ、春四郎…ッ!」
つい口からついて出てしまった弟の名に、春幸自身が驚いた顔をしていると、目の前の春太郎の面差しが急にぱあっと明るくなった。
「なーんだ。ちちうえも叔父上が居なくなって寂しかったのかぁ」
同じだ!同じだ!と喜ぶその様があんまりにも可愛くて、それゆえに心咎めがして…春幸は思わず春太郎を掻き抱いた。
すまない春太郎、本当にすまない。こんな汚れた父上を知ったら其方は軽蔑するに違いない―――
春太郎と春幸の想いは…まさに似て非なるもの。
春幸の春四郎への想いは、兄弟の情愛をはるかに超えた―
……狂おしいほど深い、恋情だった。
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