ちちうえ

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ちちうえ

…それは腹の奥底に、春四郎を恋い慕う感情の澱がいくつも溜まってゆくような感覚だった。  その小さく白雪の如き恋心が、次第に身の裡から溢れんばかりに大きく、穢れた鼠色を含むのも、さして時間はかからなかった。  春幸がその気持ちに気付いた時は、未だ前髪のある時分で、丁度その頃『お飾り家長』と揶揄されていた、父春信が榎本を取り仕切っていた頃だった。 ある日とうとう春四郎に向かうこの気持ちを押しとどめられなくなった春幸は、未だ眠いとむずかる春四郎を背負い、まだ夜も明けきらぬ時間(とき)を見計らって、榎本の屋敷を飛び出した。 ―武家のような、こんな堅苦しく狭い世界に居るから惑うのだ。大海原のように広い世間へ出てみれば、たとえ男同士であろうと血を分けた兄弟であろうとも、我々の事など誰も気にも留めないに違いない  ゆえに今日限り武家の身分を捨て去って、春四郎とこの先二人…人目のつかぬ所でひっそり生きようと、そう決断しての出奔だった。  春幸は夜目の利かぬ榎本の屋内を、何回も試し歩きした通りの順で巡っていった。幾つもの長廊下や表座敷、奥座敷、上の間の前を息を潜んで渡り切り、やっとの思いで目指していた武芸場へ身体を滑り込ませると、春幸は安堵のため息をこぼした。 ―後はこの武芸場を突っ切ってしまえば、屋敷の裏門の前に出るはずだ  昔はよく裏門にも護衛の者が張り付いていたが、家禄を削られ窮した榎本は今や人足不足で、そこがもぬけの殻である事を春幸は知っていた。  ゆえにこの武芸場を通り抜けるのが、最後の関門。  とたんに大きく気が緩み、わくわくとした気持ちが込み上げてくる。 ―これからは春四郎を養う為にも、拙者は働きに出なくてはならないし、暮らす場所も探さねばならないな…  できれば海沿いが良いと思っていた。  春四郎は未だ海を見た事が無かったから。 「ふふっ…ふふふ。何だか楽しくなってきたぞ」  想像するだけでも、またつい顔が綻んでしまう。  今はまだ彼は誰時(かわたれどき)で、周りは未だ闇に沈んでいるというのに、春幸の胸の内だけは海面を照り付ける陽射しの如く、キラキラとした希望に満ちていた。  再び兄の背に凭れて眠てしまった春四郎のこの重みが、春幸に生きる力を与えてくれる。  こんな風に愛おしく思える相手は、この世でたった一人だけ。弟の春四郎だけなのだ。 ―春四郎にとっても良い事にきまっている。武家の次男に生まれたというだけで…春四郎は己以外の誰にもかまって貰えず生きてきた。これからは拙者と共に世間を知り、人の温かみを知ってゆけば、春四郎も沢山笑顔になるはずだ。  期待に胸膨らませた春幸が、再び慎重に、足音を立てぬよう歩き出した時だった。 「まっ、待ちなさい、はー…はる、はるゆき…っ!」 淡い手燭の灯と共に、背後から酷くどもった声が聞こえた。 その声にビクッと震えた春幸が、声の方を振り向くと、闇夜に浮かんで見えるほど色の白い男が、入り口でぽつねんと立っていた。 「父上…」 いつも置物のようにただそこに居るだけで、その大きな瞳に誰の姿も映す事なく、外ばかりを眺めて過ごしてきた父が‥‥  その父が今、眼のまえに居る。  春幸は、にわかに信じられなかった。  四六時中病床に伏す母と、何時もぼうっと座っていた父を、部屋の外から眺め続けた春幸の幼き日。  一度でいいから、己の姿をその眸に宿して欲しかった。  一度でいいから、己の名をその唇で呼んで欲しかった。 そして今初めてその積年の願いが叶えられ、春幸の心は歓喜に震え、足は無意識のうちに止まっていた。    一方父は、余程慌てていたのだろう。 何度も袴に足を引っ掛けては転びそうになりながら、息を切らして春幸の元へやってきた。 「父上…」
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