ちちうえ

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 初めて間近で見た父は小さく、春幸の肩ほどまでしか背が無かった。  また手燭の灯に照らされ益々冴える、父の白い肌や潤んだ眸は、到底三十路(みそじ)の男のものとは思えぬほど少女めいていて、美しい。  思わず春幸が、父の可憐な面差しに見入ってしまった時だった。  突然その場で父が膝を折り、春幸の足元に平伏した。 「はっ…春幸!どっ…どうか!どどど…どうかっ!このおやしきから、でっ出て行かないでっ、ほ、ほしい。わたしはばかで…ほんとうにばかだから…ちっ父うえの、望みのっ!え、えのもとの、か―…えと、か?…はは、またばかだから忘れてしまった。でっ、でも!そなたは賢い!そなたは…私と違ってちちうえのじまんの孫だと、ちちはいつもそう申しておられた。だっ、だから…わっ私の代わりに、ちちの望みをかなえて欲しい。そうしたら、きっ、きっと、父は天国でうれしいはずだから。きっと、きっとよろこんでくれるはずだから。おっ、おねがいします…おねがいします…」  そう言って父は頭を下げるたびに、何度も頭を床板に打ち付ける。  武芸場に漂う厳かな空気の中、頭を打ちうつけるゴンゴンという音と…子どものように泣きじゃくりながら話す、父のたどたどしい口調が鳴り響く。  そんな父の様子を見ているうちに、春幸は不意に泣きたい衝動に駆られた。 幼い頃、父に近づきたくとも父の側には必ずお付きの者が居て、父とは絶対話をさせて貰えなかった。父は春幸を見て悲しげな顔をするだけで、毎回お付きの言いなりだ。祖父はあんなに家臣に威張り散らしていたのに…と、春幸はいつも不思議でたまらなかった。  周囲がどんどん年を取っても、まるで人形のように歳を取らなかった父の面差し。  その悲しげに宙を彷徨う父の眸には―…一体今まで何が映っていたのだろう。 春幸は涙を振り切るようにかぶりを振ると、足元にうずくまる小さい背中を見下ろした。 拙者は別にどんな父でも良かったのに…ただ拙者を愛してくれてさえいたならば …けれど目の前の幼い父の姿に、その片鱗は何一つとして見受ける事はできなかった。 ―そんな男は父とは言えない。さあ早くこんな男足蹴にして、サッサと身を翻し逃げてしまえ…っ!  春幸は自身を叱咤して、グッと足先に力を込めた。 「―――…っ!」 …しかし己の意志を裏切って、春幸はどうしてもその場から立ち去る事ができなかった。  春四郎の背中の重みと、目の前の子どもの様に泣く父の姿が春幸の胸の内でせめぎ合う。  春幸は沢山の綯い交ぜになった感情を押し殺すように、グッと奥歯を噛み締めた。 ー…捨てられない。父に愛されたいと…ただひたすらそれだけを思って生きてきたこの哀れな男を、どうしても捨てられない  うずくまる父の小さな背中が、あ日の幼い自分の背中と重なって見える。  春幸は眉根を寄せて眼を閉じたが、再び目を開けた時には―(せん)とは違う決意新たな面差しになっていた。  春幸は目の前で未だ頭を打ち付ける父の腕を掴み、立たせると、おいおい泣く父の顔を見ながらこう言った。 「父上拙者は何処へも行きませぬ。春四郎が珍しく夜泣きをしたので、おぶさってここまでやって来たのです。ここであれば幾ら泣いても屋敷の者に迷惑などかかりませぬから」  大の大人が聞けば即座に分かる、見え透いた嘘だった。  しかし童顔の父の面差しは、それを聞いた途端、ぱあっと花が咲くように明るくなって「なんだ、そうだったのかぁ」と喜ぶと、(せん)とは打って変わってはしゃぎだした。  武芸場から出た春幸は、すぐウロウロとしてしまう父と手をつなぎ、背には春四郎を背負いながら奥座敷へ続く長廊下をゆっくりと歩き出す。  春幸はその薄暗い長廊下を歩きながら、ふと思った。 …業だ。榎本の家格をどうしても上げたいという祖父の業が、まるで怨霊の如く己にべったりと纏わりついているのだ― ―逃げられない。拙者はきっと…この呪縛から、生涯逃げられない  春幸は自嘲的にフッと笑うと、隣で手を引かれていた父が「何かよいことでもあったの?」と無邪気な顔で春幸に話しかけてきた。
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