弟よ

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弟よ

   それから年頃になった春幸は、気を抜くと春四郎に向かいそうになる暴力的なまでの劣情を、他人(ひと)の肌で埋める様になっていた。  春四郎の肌でなければ、男でも女でも誰でも良かった。 …例えそれが、朋輩早川が命より大切にしていた姉御の肌であったとしても。  しかし己の腹に溜まった澱は、減る事なく増える一方で。春幸は、常に煩悩と戦う日々だった。 他人(ひと)と肌を合わせる度に益々枯渇する己の身体は、常に春四郎の肌に飢えていた。  苦しくて苦しくて、夜中に春四郎の部屋へ忍び込んでしまおうと思ったのも一度や二度ばかりじゃない。 …それなのに、そんな己の苦悩など露ほども知らぬ春四郎は、蕾が一気に花開くように春幸の側でどんどん美しくなっていく。 何ども諦めようと思った。 わざと春四郎を避けていた時期もあった。  だがあの日竹藪で春四郎と男の口吸いを見た刹那、鼠色だった心の澱が、一気に黒いモノノ怪に変容したのを、春幸は自分自身ではっきり感じた。 ―武家に生まれた男子たるもの、その種を残す事、第一の志なり  ああやって呪詛の言葉を教え込んで、春四郎の心を雁字搦めに縛り付けようとした卑怯な自分。  あの言葉が本当に必要だったのは、己の方だったのかもしれない。  男同士の…ましてや弟との同衾を誰よりも切望していたのは、それをひたすら説いた春幸自身だったのだから。 「…ちちうえ、少しおちついた?」  春太郎の忙しなく動く大きな目が、さめざめと泣いた春幸の顔を覗き込む。春幸は涙に濡れた目を眇めると、目の前の春太郎に笑いかけた。 「すまない、拙者としたことが。随分と取り乱してしまったな」 「ううん、大丈夫だよ。…そういえば、たった今思い出したのだけど、叔父上も一度だけちちうえみたいに部屋で泣いていたことがあったなぁ」 「…そうなのか?」  びっくりした。春四郎は幼少期にはよく泣くこそすれ、大人になってからは泣き顔など一度たりとして見た事は無かった。 「うん、あれは…そうだ!叔父上が、ろうしょくさまのむすめと祝言を上げる前の日だ。それがしに、『ほんとうは未だここに居たいけど、兄上の夢をかなえるためだから』って言って泣いてた。…ってあっ…!ないしょだよって言われていたのに言っちゃったぁ!ちちうえ!これはたごんむようだよっ!」 「…」 「…父上?」  春幸は口元に手を添えて思案顔で俯いた後、ハッとした面持ちで(おもて)を上げた。 ―そうか…それであの時、春四郎はあんなにも婿入りする事にこだわっていたのか  両家の顔合わせの際、老職の娘には既に男の影があると踏んでいた春幸は、どうにかしてこの縁談を破綻にしようと目論んでいた。無論、自身の側から春四郎が居なくなるのを阻止する意味合いもあったが―それ以上に、春四郎がその娘に傷つけられる姿を見たくなかった。  にもかかわらず、春幸の意見を押し切って強引に話を進めたのは、他でもない春四郎本人だった。  特に娘を気に入った様子も無かったので、単にここより数段裕福な屋敷暮らしを切望するが(ゆえ)だと思っていたが。 『榎本の家格を、上士に上げて欲しい』  隠居屋敷で見た死ぬ間際の祖父の苛烈な眼差しと、武芸場で見た父の汚れを知らぬあの眼差しが、春幸の脳裏に浮かぶ。 そうか…春四郎は、拙者の願いも祖父や父と同じであると勘違いしていたから ―—…だから自身を犠牲にしてまで、老職の入婿になったのか  私欲で春四郎に藩校を辞めさせた後、悪いと思いながらも兄への義理から強く言い出せない春四郎の心を利用し、屋敷に閉じ込める様な生活を強いてきた。  けれど、春四郎は春四郎なりに、春幸を想ってくれていたのだ。  その想いが、決して春幸と同じものでは無かったとしても。
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