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「そんな春四郎に、拙者は何てこと…」
春幸は一人呟くと、掌で自身の額をきつく抑えた。
あの日‥‥朋輩早川が春四郎の元へ訪れたあの日。
家臣から早川が訪れた旨を知らされた春幸は、嫌な予感がして春四郎の部屋まで赴いた。咄嗟に早川の大切な姉御を寝取ってしまった過去が、春幸の頭を過ぎったのだ。
すると案の定、春幸が春四郎の部屋へ入るやいなや、春四郎の鼻先に付かんばかりの顔の近さで、早川が何やら叫んでいるのが目に入った。
そのさまは、昔竹藪で見た春四郎と男との口吸いを彷彿とさせ、カッとなった春幸はすぐさま早川を斬りつけようとした。
…あの時は別に、二人もろとも斬りつけても構わないと本気で思った。
あれほど男同士は駄目だと口酸っぱく言ってきたのに、言うことを聞かぬ子には罰を与えねばならぬ。
いっそのこと春四郎もろとも殺してしまえば、こんなに苦しまなくて済むのではないか――
…だが結局春幸は、二人を斬る事は出来なかった。
刀を振り上げたその瞬間、飛んできた一寸程の吹き矢が手首に刺さり、寸での所で力が入らず刀を降ろせなかったからだ。
しかしその一方で、嫉妬の業火に炙られ暴れ出した腹の内のモノノ怪は、春幸自身の力ではどうにも出来なくなっていた。
春四郎を足高山の隠居屋敷にかくまうのも建前で、むしろこの機会を好機とし、周囲にあの屋敷で春四郎が切腹したと触れ回った後、ほとぼりが冷めたら春幸だけであの屋敷に訪れるつもりでいた。
あの山奥の浮世離れした廃屋敷で、春四郎を一生囲い続ける為に…
春四郎は既に死んだことになっているから、もう、自身以外の誰かに会わせなくても不自然な事は何もない。
一方春四郎も榎本の家禄が下げられてしまう一件で、春幸に多大な罪悪感を抱いているので、春幸の意のままになるに違いない。
ゆえに春四郎は生涯、自分だけの籠の中の鳥―
籠の鳥に成り下がった春四郎は、あの屋敷から生涯出る事も叶わずに、いずれ春幸の訪れを心待ちするようになるだろう。
その時初めて春幸は、春四郎の身も心も全て手に入れられるに違いなかった。
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