通勤電車のバケモノ

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 また話しかけてる。  前に座る女性の耳元に、隣に座る汚い髭面の男が囁きかけていた。  何を言われたのだろう。ミサキさんは、しばらく眉間にシワを寄せ、一点を見つめていたが、聞こえないふりをすることにしたのか、手元のスマホに視線を落とした。  相手にされなかったこの男も、もはやスマホを見るしかなかったようだ。なにやら乱暴な手つきで長文を打ち込んでいる。  時にはキョロキョロして、再びスマホに何かを打ち込む。周りの乗客もさぞ不快に感じていることだろう。  私は、IT系の企業に勤めており、都心に構えた小さなオフィスに向かうため、毎朝決まって7時13分の急行に乗る。この時間に座れることは、まず無い。2両目の1番ドアから乗り込み、左に進んで1両目に繋がるドアの前に立ち、端の吊り革に捕まる。終点に着く直前だと乗車率200%を超えると言われるこの電車も、この車両に限っては人が少ないように思う。  いつもの車両にはいつもの顔ぶれが乗っていた。  そう、この髭面の男も。  今日はいつにも増しておかしい彼の挙動に、目が離せなかった。腕を何度も組みかえ、右足の貧乏ゆすりはどんどん早くなっていく。  周囲を見渡したあとに、私の顔をちらと伺い、そして右のミサキさんの顔を見つめてから、そっと顔を近づけ、小さく口を動かした。  再び何かを囁かれて、ミサキさんはスマホを触るのをぴたりと止め、ゆっくりと右の壁にもたれかかると、顔をカバンに埋めて縮こまった。  こいつはどんな恐ろしいことを言ったんだ……。  髭面の男は固まったミサキさんの肩に手を回すと、再び私の方に顔を向けた。その表情には薄らと笑みが浮かんでいた、ように見えた。  考えるよりも先に、私は男の胸ぐらに掴みかかっていた。  虚を衝かれた男は、私の顔と自分を掴む私の手を交互に見比べていたが、突然思い出したように殴りかかってきた。  鼻に衝撃が走った。ツーンとしたものが鼻から眉間を通って、頭へ駆け上る。  もろに顔面パンチを喰らってしまったようだ。景色が、傾いては水平に戻ろうとしている。  ──これ以上、この男を野放しにできない。  ジャケットの懐からナイフを取り出し、男の腹めがけてひと突きした。  突かれた男のうめき声は、ミサキさんの悲鳴によってかき消された。一瞬の静寂のあと、今度は女の、男の、乗客の悲鳴が波を打つ。  周りの乗客が、髭面の男を残して、みな3両目に移った頃に電車は止まり、開いたドアから大勢の警官が飛び込んできて、すかさず私は取り押さえられ、後頭部を床に強打した。  耳鳴りの中を、ミサキさんの声が反響する。 「……こいつが!こいつが犯人です!私のことを毎日、ストーカーしてたんです!ヨウイチさん私のことかばって……ヨウイチさん!ヨウイチさん!」 ──通勤電車のバケモノ 完
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