愚か者、己の過ちを知らず

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 私がバイトしている店は至って普通の小っちゃな喫茶店なのだが、一つだけおかしな慣習がある。それはマスターが一風変わったコーヒーの出し方をすることだ。  言うまでもなくコーヒーはホットならカップで、アイスならグラスに入れるのが定石だろう。しかしうちの店では全くの真逆で、ホットはグラスで、アイスはカップで提供するしきたりなのだ。  バイトの初日に入れ間違えたマスターを見て、 「マスターのミスだろう。意外とおっちょこちょいな人なんだな」  と私は思った。しかし二度三度と同じ行為を繰り返すマスターを見て、故意にやっていることを確信した。もしくは単に常識を知らないだけでは、という考えも頭をよぎったが、どうも熱いコーヒーはグラスが割れないように少しずつ丁寧に注ぎ、アイスコーヒーはカップを冷やしているようだった。さらにマスターはお客の反応を楽しんでいる節も見受けられた。  そのお客さんたちはというと、反応はまちまちで、常連さんと思われるお客さんは気に留める様子もなくコーヒーを手に取った。一方初見と思われるお客さんは不審な表情を隠そうともせず、カップを持って底を見上げたり、グラスの温度を手の甲で測ってみたりした。  そのようなお客さんの反応を見て私は、 「私が間違えたんじゃありませんよ、マスターです、マスター」  と自分が馬鹿だと勘違いされないよう心の中で祈っていた。  マスターに指摘しようかとも考えたが、野暮ったく感じ、また慣れないバイトに緊張していたせいもあって機会を逸してしまった。  そうしてマスターに尋ねることなく数日が過ぎたが、いつの間にかお客さんの反応を見ることが楽しみになっている自分に気が付いた。ニコニコと嬉しそうに淹れたマスターのコーヒーを、私も満面の笑みをもってお客さんに提供した。 「うちの店、ちょっと変わってるんだよ」  バイトが楽しくなってきた私は友人の円香(まどか)にマスターのことを話してみた。独特な入れ方やお客の反応について聞いた円香は予想通り驚きの表情を見せた。 「えー、何それ、聞いたことないんだけど」  初めこそ大げさに驚いて見せた円香だが、すぐにある問題点に気づいた円香はそれについて言及した。 「でも、ホットをグラスで出すのって危なくない? それに飲みにくいと思うんだけど」 「大丈夫だよ。ちゃんとお熱いのでお気を付けくださいませって言って差し出してるし、うちのグラスは取っ手付きなんだ」 「えー、それでも危ない思うけどなあ。私と同じ意見の人も絶対いるよ」 そう言うと円香は徐に携帯を取り出し、店名を入力して検索を始めた。 「ほらあ、やっぱり私の言った通りじゃん。あ、火傷したって書いてる人もいるよ」  円香から携帯を引ったくり目を通すと、本当にそう書いてあった。 「ホットコーヒーをグラスで出す非常識な店。二度と行きません……。ええと、その下が、火傷したのに店長の謝罪なし。モラルを疑う……」  一通りのレビューを読み終えると私はため息をついて肩を落とした。  円香はそんな私を見てあたふたし、いい口コミも読み上げてみせた。 「でも悪い評価ばっかりじゃないよ! ほら、これなんか、雰囲気が良く店長も優しいだって……。それから例のコーヒーの入れ方についても独創性があって面白いだって!」  そう言われて多少救われた気持ちにはなったものの、快く思わない人々もいる事実に私はすっかり落胆してしまっていた。  円香とお店のレビューを見て以来、私は今までにも増して注意して給仕するように心がけていた。その物腰の変化をマスターも察していたようだった。  そんなある日ついに恐れていた事態が起きた。恰幅のいい中年男性にホットコーヒーを注文されたので、 「ホットコーヒーでございます。大変お熱くなっておりますので、十分お気をつけてお飲みください」  と告げて、カウンターまで下がろうとしたところ、その男性に呼び止められた。 「おい、何だね、このコーヒーは。コーヒーはカップで飲むものに決まっているだろう。淹れ直したまえ」  そうぶっきらぼうに捲し立てられ、私が気後れしているとマスターがカウンターから応対した。 「お客様申し訳ありません。当店ではコーヒーはそのグラスで出させていただいております。どうぞご理解のほどよろしくお願いいたします」  しかし男性はよほど神経質なのか、自分の主張が通らなかったことが不服なのか、ぎゃあぎゃあと喚きたてた後、悪態をついて退店した。  後でグルメサイトを確認したところ新たな低評価と事実無根の口コミ一つが増えていた。  その日の閉店後、後片付けをしている時、ついにマスターに尋ねてみた。 「マスター、どうしてこの出し方に拘るんですか。たしかにお客さんの反応は見てて微笑ましいけれど、今日みたいな嫌なお客さんもいると思うんですよね」  するとマスターは微笑を浮かべて自らの経緯を語り始めた。 「私がこの喫茶店を始めたのは10年も前になるんだがね。どうしても自分の店を持ちたいという夢を諦めきれなかった私はね、思い切って脱サラして店の経営を始めたんだよ。そんな私のわがままを妻は文句ひとつ言わず私を支えてくれてね。でも案の定店は赤字続きで、妻には苦労をかけっぱなしだった。ついに限界を感じて、もうこれ以上迷惑はかけられないから別れてくれと私が切り出した時、妻は徐にコーヒーをグラスに注いで私に差し出してきたんだ。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった私は、俯きながらよく見ずにグラスを手に取った。アツッと言いながら手を引っ込めて妻を見ると、妻は大笑いしていた。それから妻は別れ話について一切言及してこなかった。私には過ぎた妻だとただただ感涙したものだよ。それから妻がこのイタズラを常連さんにも仕掛けるようになった。すると不思議なことに経営は右肩上がりになっていったんだ。 この入れ方が原因で店が持ち直したのかは分からない。けれど私は妻のあの無邪気さがお客を呼び込んだと信じている。妻はそれから程なく病死してしまったが、私はこの入れ方を変えるつもりはない。妻が亡くなって以降、初見さんにも出すようになったし、安全面を考慮して手を加えた部分はもちろんある。例えばグラスを取っ手付きのものに変えたり、コーヒーの温度を下げたりね。しかし私は死ぬまでこの入れ方を変えることはないよ」  語り終えるとマスターは寂しそうな、けれど誇りを持った顔をしていた。  時折変わった料理を出す店や独自のルールを作っている店に出会う。その背景には一人、あるいは複数の人たちの思い入れがあるのかもしれない。ただ単に普通じゃない、気に食わないという理由でそのお店の評価をつけるのは、その人の思いを傷つけている可能性があること、私は口コミを投稿する前に一歩立ち止まってほしいと願って止まないのだ。
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