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走る。嵐の参道を、弟を想いながらひたすらに駆け上がる。
本当はずっと後悔していた。島を出るなら那由多も一緒に連れ出すべきではなかったか、と。それができなかったのは、やはり、心のどこかに祀津の人間としての枷がかけられていたのだろうと今なら思う。父を独りにすれば、万一の時に父が殺される。だからせめて、那由多には島に残っておいて欲しいと――が、それは、いざとなれば那由多を辱めに差し出しても良いという、今にして思えばあまりにも穢らわしい発想の裏返しでもあったのだ。
そんな自分に、今なお那由多を想う資格が残されているのかは知らない。
それでも足は駆ける。心臓ははちきれんばかりに早鐘を打つ。心は、一刻も早く那由多の元へと逸る。
那由多。ああ那由多。那由多――
ようやく坂を上り切ると、そのまま聡介は転がるように境内へと飛び込んだ。
そこには、暴風吹きすさぶ中にも拘わらず多くの島民が犇めいていた。風雨に揺れる篝火にうっすらと照らされたその姿は、かつて父に聞かされた黄泉の国の逸話を彷彿とさせた。女神伊邪那美の屍肉に群がる冥界の悪鬼ども――そんな彼らの耳目は、今はしかし一様に能楽堂の方に釘付けにされ、聡介の姿には誰一人として気付くそぶりを見せない。
まさか、と能楽堂を振り返る。
どうして。なぜ、こんな。
得体の知れない感情が急速に湧き上がり、叫びとなって喉から迸り出る。自分が何を叫んでいるのか、そもそも、それが自分の声かどうかすら今の聡介には判然としなかった。ただ、その声に周囲の人間が振り返り、一様にほっとするのが辛うじて視認できた。
よかった。祀津の兄貴が来てくれた。これでやっと海神様も鎮まってくださる――
ふざけるな。
ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな。
「うゥるあああがあああアァ!」
目の前の男を突き飛ばし、老婆を乱暴に押しのける。そうして眼前に現れる人影を手当たり次第に薙ぎ払いながら、聡介は能楽堂へとひた走った。そのままの勢いで一足飛びに舞台へと乗り上がり、次の跳躍で、那由多を組み敷く小太りの男に渾身の両足蹴りを叩き込む。
突然の蹴りに、舞台奥へと無様に吹っ飛ばされる男。その、でっぷりと太った腹に聡介は間髪入れず馬乗りになると、両手で男の喉首を掴み、その顔が赤黒く変色するのも構わず容赦なく締め上げた。
「……殺してやる」
何が海神だ何が鎮めの儀式だ。
要するに、島の連中で挙って那由多を辱めたかっただけだろうが。思えば昔からこいつらはそうだった。浴場では那由多の身体を不躾に目で嘗め回し、中には尊厳に関わる場所を無遠慮に弄る奴もいた。
かつて島一番の美人と名高かった叔母。そんな彼女の美貌をそのまま引き継いで産まれた那由多は、島の男達にそうした欲望を向けられることも多かった。が、那由多は那由多であって叔母を象った人形ではない。尊厳を踏みつけにされれば、その分だけ傷ついてしまうのは当たり前の話だ。
なのに。それなのにこいつらは。
――早まらないでくださいね。
ふと脳裡をよぎった言葉が、指先の力を萎ませる。
ああ、そうだ。自分は獣ではない。ここに屯する連中のような、前時代的でグロテスクなまじないに縋る未開人でもない。科学を味方に明日を切り拓く文明人だ。
ふ、と一つ息をつき、小太りの男からそっと離れる。男の意識はすでに落ちていたが、息はあるから死んではいないだろう。よく見るとそれは、子供の頃いつも漁に連れ出してくれた顔なじみの漁師で、なまじ見知った顔だったことが余計に聡介の心を打ちのめした。
大好きだった。この島が。
だからこそ救いたかった。このままでは時代に置き去りにされてしまう。その前に、どうかこの島に新しい時代の黎明をと祈りを込めて聡介は島を出たのだ――今となっては、何もかも過去の話だ。
振り返り、改めて傍らに横たわる弟に目を向ける。那由多は、目を閉じたまま微動だにしなかった。眠っているのか、あるいは気を失っているのか。いずれにせよ、板張りの舞台に力なく四肢を投げ出し、指先ひとつ動くそぶりがないのは、まるで死体のようで見ていて怖くなる。
まさか、本当に――だが、わずかに上下する白い胸板が、聡介の脳裏に浮上しかけた最悪の想像を打ち消した。大丈夫。生きている。少なくとも、生贄として殺されたわけではなさそうだ。
そんな那由多の身体には、抵抗の跡か、あるいは一方的な暴力か、夥しい数の青痣や擦り傷ができている。が、それさえも、だらしなく投げ出された両足の付け根を濡らす血に比べればまだ直視に耐えられた方だろう。想像するだけで吐き気を催す話だが、おそらくはここで、ずっと……
レインコートを脱ぎ、そっと那由多の身体を包み込む。やはり、その姿は直視に耐えない。美醜の問題ではない。直視してしまえば最後、大貫が引いてくれた最後の一線さえ無様に踏み越えてしまう予感がした。
そのまま、那由多を起こさないようそっと抱き上げる。
那由多の身体は、成人男子のそれとは思えないほど軽かった。もともと肉付きの悪い体質ではあったが、それでも、あの頃の那由多は今ほどには痩せてはいなかった。
那由多は昔から、辛いことがあるとすぐに食が細った。
何となく食が細って見える日、どうしたのかと訊くと大抵はぎこちない笑みで「なんでもないです」と突っぱねられた。そんな日は、それきり何も訊かずに肩を抱き、優しく背中をさすりながら那由多の方から口を開くのを待った。すると大抵、どうしてそんなものをと呆れるほど深い胸の傷を、そっと、聡介にだけ見せてくれた。
きっとこの十一年、那由多は辛くて苦しくてたまらなかったのだろう。食事もろくに喉が通らないほどにーーそんな那由多を、島に置き去りにした張本人が憐れむ資格はない。ましてや手を差し伸べるなど。
それでも。
聡介は、那由多を抱きしめる手を解くつもりはなかった。身勝手は百も承知だ。非難や恨み言はいくらでも引き受ける。憎しみさえも。それでもーー
「おい何やってる! さっさと儀式を始めろ!」
境内から投げられた声に、聡介は我に返る。
ああそうだ。今は打ちひしがれている場合じゃない。反省や償いなら後でいくらでもしよう。が、とにかく今はこの場を離れなければ。危険でもあるが何より、こんな忌まわしい場所には一刻も留まっていたくはない。
だが、境内は島民で犇めいている。その目はいずれも、早く儀式を済ませろと血眼で急き立てている。拒むことなど許さないと言わんばかりに。
どうする。どうやって逃げる。
鳥居の向こうから、やけに甲高い悲鳴がいくつも聞こえて来たのはそんな時だった。家に留め置かれた子供達の声だろう。島では、儀式の検分は成人――島が成人と定義するところの十六歳以上の人間のみで行なう。それ以下の子供達は今も集落に残されているはずだが、その子達がどういうわけか独断で神社に向かっているらしい。
やがて、声の主たちがわっと境内に殺到してくる。子供がいては儀式は行なえない。早く儀式を済ませたい、なのにできない二律背反な状況に陥った境内は俄かに混乱し、騒然となる。その混乱に乗じ、聡介は近場に立てられていた篝火を蹴り倒すと、さらなる混乱を境内に注いだ。
そうして生じた島民たちの隙を目敏く衝くと、一寸先も見えない鎮守の森の深い闇へと、幼い日の記憶を頼りに聡介は一目散に駆け出した。
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