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「やだなぁ係長。いつ怪奇小説家に転向なさったんです? パノラマ島だってそこまで悪趣味じゃありませんよう。担ぐならもっと本当らしい嘘を捻り出さないと」
「嘘じゃない」
吐き捨てるように言うと、聡介はジーンズのポケットから煙草とジッポを取り出す。が、先程の逃避行でぐっしょりと濡れた煙草は、いくら炙っても火がつく気配すらなく、聡介は、くそっと毒づきながら箱ごと洞窟の奥へと投げ捨てた。
「まぁ、お前のような部外者にしてみれば、そう捉えるのが妥当だろうけどな」
そんな世話話を交わす間も、嵐はなお激しさを増している。この洞窟が昔の姿のまま残されていなければ、二人は嵐に揉まれる椿林を延々と彷徨う羽目になっていだろう。
そこは祀津家が所有する椿森で、椿油の収穫時期を除けば一般の島民はまず足を踏み入れることはない。しかも洞窟の周囲は藪が密集し、よしんば島民達が二人を探しに追手を放ったとしてもそうすぐに見つかることはないだろう。
この場所を聡介が見つけたのはもう二十年近くも前のことで、子供の頃、那由多との探検ごっこで偶然発見した。以来、しばらく二人だけの秘密基地として使っていたが、まさか三十路に入ってまで入用になるとは思ってもいなかった。
入り口はせいぜい大人二人が並んで通れるほどの狭さだが、奥には畳八畳分ほどの空間があり、大貫と二人で入っても窮屈感はない。おまけに藪のおかげで雨風はほとんど吹き込まないから、隠れ潜むにはぴったりの場所だ。
祀津の儀式を拒んだ聡介は、そのために島民たちの顰蹙を買い、大貫ともども追われることとなった。さいわいこの洞窟のことを思い出し、追手の目を眩ませることができたが、さもなければどんな目に遭わされていたか、もはや想像したくもない。
「俺のおふくろも、そのせいで死んだ。自殺だ。元は島外の出身だったから、耐えられなかったんだろう。この島の現実に」
「じゃあ……本当、なんですか」
呻く大貫の声は、先程とは打って変わって怯えたように震えていた。雨で濡れた服のせいだけではないだろう。むしろ気温は、台風が連れ込んだ熱帯性の温気のせいで汗ばむほどに蒸し暑い。
「い……今のお話が本当なら……とんだ人権蹂躙ですよ。猥褻物の陳列だとか、そんな生易しい問題じゃなくて、その……」
「ああ。肉親同士を同衾させて、それを島民総出で監視する……とてもじゃないが正気の沙汰じゃない」
とはいえ聡介も、母のことがなければその異常性に気づくこともなかっただろう。
聡介が六つか七つの頃、この島を〝海神様の怒り〟が襲った。それを鎮めることが古来、祀津の役割だったが、その方法は今の社会通念に照らせばあまりにも悍ましいものだった。
肉親同士の同衾。いわば性行為だ。
そしてこの時も、それは行なわれた。父とその妹によって。
それを母は、成人した島民の義務として目の当たりにしたらしい。その一週間後、彼女は遺書とともに屋敷から消え、さらにその翌日、変わり果てた姿となって浜辺に打ち上げられた。
息子として、その死は当然ショックだった。
だが聡介は、母の死にただ嘆き傷つくだけの子供でもなかった。なぜ、大好きだった母が自ら死を選んだのか、何が母に死を選ばせたのかを、大人たちの言動から注意深く探り続けた。
そんな中、叔母の妊娠が発覚した。
父親はわからなかった。少なくとも彼女の兄である聡介の父は、相手の男について一切問い質さなかった。ただ、痛みを堪えるような目で日々大きくなる妹のお腹を見つめていたことだけは今もよく覚えている。
それからさらに半年後、叔母は那由多を産んだ。
ずぉん、と不吉な轟音がして聡介は我に返る。立ち上がり、藪越しに入り江を見下ろすと、昨晩世話になった浴場の大きな建屋が根こそぎ押し流されているのが見えた。海は、相変わらず激しく渦を巻いている。今は引き潮の時間だからか、先程から目立った潮位の変化は見られない。が、逆に引き潮でこれだけの惨状なら、満ち潮に転じた時にどのような悲劇が島を襲うかは、もはや想像に難くなかった。
隣で、やはり海を眺めていた大貫が手元の携帯用気圧計を懐中電灯で照らしながら言う。
「現在の気圧は九五一ミリバール。昨日の時点で米軍の観測飛行機が出した中心気圧の数字が確か八八九ミリバールでしたから……」
「ああ。少なくとも今夜……台風の中心が島を通過するまでは下がり続けるだろう。そして今回は、そこに満潮時間も重なる。それも大潮の」
今から八年前、日本列島を襲った伊勢湾台風は、三重県湾岸部を中心に甚大な被害をもたらした。その主な原因となったのは、台風の中心ーー低気圧が狭い湾上を通過したことによって生じた海水の吸い上げ、つまりは高潮だ。今から約半世紀前の大正六年に東京を襲った大津波も、同じく台風による高波が原因だったと見られている。
この現象は、台風の中心気圧が低いほど、また通過する湾が狭いほど発生しやすいことが今では判明している。ただでさえ狭い不知火海の、そのさらに一部を切り取るこの入り江が、同様の原因で荒れたとしても何ら不思議ではないのだ。
海神も〝海神さまの怒り〟も、科学を知らない古の人間が目の前の現実をどうにか受け止めるために仕立てた、要は単なるお伽噺に過ぎない。
「いや、まさに係長の読み通りですねぇ。もっとも今は、無邪気に喜んでばかりもいられませんが……」
そこでふと言葉を区切ると、大貫は、何かを思い出したように気圧計から顔を上げた。
「このまま今の高潮が続けば、やはり島の皆さんは係長と那由多くんに同衾を求めますかね。僕としては、あまり想像したくない光景ではありますが……」
「求めるだろうな」
「うへぇ! し、しかし、そうと知っていてなぜ島に戻られたんです? 観測は部下に任せて、係長は東京に居残る手もあったのでは?」
「俺がいなければ、あいつは殺されていただろう」
「……え?」
さすがに今度は茶化す気にもなれなかったのだろう、大貫は目を見開いたまま口をぱくぱくさせる。
「ど……どういうことです……えっ、那由多くんが殺される?」
「ああ。本来はそっちが正式な作法だったんだよ。儀式のな」
かつて島民が持ち回りで祭祀を行なっていた頃、島民たちは海神の怒りを鎮めるために人間の子供を生贄に捧げていた。生贄として選ばれたのは、当番の家にいる穢れを――異性の身体を知らない子供だった。選ばれた子供は手足を縛られ、逆巻く入り江の海に容赦なく投げ込まれたという。
多くの涙が流され、慟哭が入り江を満たした。
それでも儀式は絶対だった。当番の島民は、せめて自分が当番を務める間だけは海が荒れないよう祈った。それでも祈り虚しく海神が荒ぶれば、島民たちは血の涙を流しながら愛する我が子を海に放った。
ところがある時、その掟を破った者がいた。
その家には仲睦まじい兄妹がいた。ある時、その家が当番の折に例の現象が起こり、未だ男を知らない妹が生贄として捧げられることとなった。ところが、それを嘆いた兄が無理矢理妹を犯し、生贄としての資格を失わせた。
その家には、妹のほかに生贄にふさわしい子供はいなかった。怒った海神は以後、この一族の生贄しか喰らわぬこと、生贄にふさわしい人間がいなければ、代わりにこの一族同士で〝儀式〟を行なわせることを島民に命じた。それが今の祀津の祖先だ。
しかし、考えてみればそれも妙な話だ。
なぜ海神が、当番の家に生贄に見合う子供がいなかったなどと些末な理由で怒るのか。当番の家から生贄を出すのは、あくまで人間側の都合だ。所詮は無力でちっぽけな人間が定めた都合に、なぜ神ともあろう者がこだわったのか。
答えは簡単だ。要するに、最初から神など存在しなかったのだ。
全ては人の都合で定められ、遂行された。生贄を捧げていたのは、単に弱い者を使って嵐の不安を和らげたかっただけ。現在まで続く祀津家とその〝儀式〟も、生贄を用意しなかった裏切者一族への懲罰という以上の意味はない。
「じゃあ、このまま係長がここに籠っていたら、その」
「わかってる」
そう。だからこそ何としても、那由多の安全だけは確保しなければならない。今や聡介に祀津を継がせるつもりでいる島民にとって、もはや那由多は無用の長物以外の何者でもないのだ。どうしても儀式を執り行えないとなれば、嵐の海に投げ込むぐらいはするだろう。
「助けにいかなければ……那由多を……」
そう。たとえ今の自分に、那由多を助ける資格がなくとも。
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