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嵐の夜に似つかわしくない騒々しい気配に気づいたのは、潮汐がふたたび満ち潮に転じた頃だった。
「何だか騒がしいですね」
「……ああ」
折しも山を降りきり、いよいよ集落に入ろうかという頃だった。島の人間に見つかるまいと神経を張り巡らせておかなければ、この暴風の中ではまず気付かなかっただろう。
すでに日は暮れ、分厚い雨雲のせいで日中から暗かった空は、今は墨を流したような闇に覆われている。月齢的には満月のはずだが、今はどこに浮かんでいるのかもはっきりとしない。入り江も今は闇に沈み、墨を塗りたくったような視界の奥から、巨人の赤子が這いずりまわるような不気味な海鳴りばかりが響いている。
その海鳴りに混じって、風音とは明らかに違う人のざわめきが聞こえてくる。
「どこかで酒盛りでもやってるんですかね。まぁ、この嵐じゃ漁には出られませんし、酒盛りぐらいしかやることがありませんけど……にしては妙に声が遠いですね。それに変じゃありません? そもそも集落に人の気配がない」
実際、集落には人の気配が乏しかった。嵐だからと家に立て籠もっている可能性もあるにはあったが、それを差し引いても周囲は恐ろしく閑散としている。そもそもこうした日は、大貫の想像と違って島はそれなりに忙しいものだ。船が流されてはいないかと交代で海に様子を見に行ったり、入り江へ避難してくる船のもやいを手伝ったり。だが今日は、そうした作業に当たる島民すら皆無で、まさか揃って海に呑まれてしまったのではと心配になる程だった。
見知った馴染みの顔が次々と浮かんでは、聡介の不安を強くする。
今にして思えば、聡介が島を出たのは単に母や那由多のことがあったからではない。
本から、そしてラジオから伝えられる新しい世界の有り様は、もはや聡介に旧来の生き方を許さなかった。このままでは島そのものが時代に取り残されてしまう。歪んだ伝統もろとも滅びてしまう。だから変えなければと思った。とりわけ、母を自殺に追いやったあの悍ましい儀式だけはーーあの時の聡介の想いは、今も何一つ変わっていない。父と叔母に近親相姦を強要し那由多を産ませた残酷な島を、それでも想ってしまう。救える道はないかと頭を悩ませてしまう。その意味で聡介は、どこまでも祀津の人間だったのだろう。
ただ、その想いを那由多の前で口にすることはしなかった。那由多は、あの儀式をきっかけに産まれた子供だ。彼の前で島の儀式を――彼の根源を否定すれば、きっと心に傷を負わせてしまうだろうと……
「係長」
大貫の声にはっとなった聡介は、つい那由多のことを考えてしまった自分に憮然となる。あかりの言う通りだ。何だかんだと言って、結局自分は那由多の事しか目に入らない性分らしい。
「な、何だ、大貫」
「見てください、あれ」
そして大貫は、海とは反対側を指差す。暗雲渦巻く空の下、横たわる山の中腹に神社の鳥居がうっすらと輝いているのが見えた。が、よく見ると鳥居そのものが輝いているのではなく、その奥の境内で篝火が焚かれているらしい。
嫌な予感が、ふと聡介の背筋を貫く。まさか――
「えっ、係長!?」
不意に駆け出した聡介に驚いたのだろう、大貫が慌てて呼び止める。その声に聡介は我に返ると、すかさず大貫のもとに引き返し、尻のポケットから手帳を取り出した。
「宿に戻って、この番号に電話をかけろ」
濡れた手帳を開き、番号の記されたページを引き破いて大貫の手に握らせる、ページには、昨日二人を島に運んだ八代の漁師宅の電話番号が記されている。
彼には、もし帰りが早まるようなら連絡を寄越すとあらかじめ告げてある。さすがに今夜は船を出せまいが、聡介の見立てでは明日未明にも島は強風域を抜けるはずだ。その頃には、風も波もかなり弱まっているだろう。
「明朝、島の北東の岸壁に船で迎えに来るよう言うんだ。北東だぞ。南の入り江じゃない」
「は、はぁ、でも宿に戻ったら、その、島の人に捕まって、」
「いない。島の人間は――大人達は、今は全員神社にいる」
その言葉に何かを察したのだろう、大貫はヒッと息を呑む。そんな大貫に、なおも聡介は平静を装いつつ指示を出す。
「電話を終えたら、山を越えて北東の岸壁に移ってくれ。そこに小さな船着き場があって、近くに収穫した椿の実を保管するための小さな倉庫がある。そこで俺達を待て。もし明朝までに俺達が戻らなければ、その時はお前一人で島を出ろ。いいな?」
それだけを言い残すと、聡介は足早に踵を返す。必要な命令は下した。大貫は下世話だが頭は良いから、今の説明でも充分に意を汲んで動いてくれるだろう。
ところが大貫は、またも聡介を呼び止める。
「あの!」
「何だ!」
さすがに今度は苛つきを隠せず、返事の声をつい尖らせてしまう。今は一刻でも早くあの神社に駆けつけたい。本音を言えば、大貫に指示を下す暇すら惜しかった程だ。
そんな上司に、大貫はやんわりと、だが、どこか必死な顔で告げる。
「早まらないでくださいね」
「……は?」
「何を見ても、その、早まらないでください。確かにこの島はあまりにも前時代的です。けど、係長までそれに付き合う必要はないんです。早まっちゃ、駄目です」
そして大貫は、雨の中、ずぶ濡れのままぎこちなく笑う。その笑みに含まれる気遣いにようやく気づいた聡介は、やはりぎこちなく笑い返すと、言った。
「やっぱり、お前を連れて来てよかった」
そして今度こそ神社めがけて走り出す。あるいはこれが最期になるかもしれない部下に、胸の内で感謝の言葉を繰り返しながら。
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