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先程の洞穴に戻ることができたのは、ほとんど幸運のおかげだと言っても良かった。
あの後、やはり島民たちは聡介に追手を放ってきた。
だが、そんな彼らも子供の頃から鎮守の森を散策し尽くした聡介の敵ではなかった。この森のことならば、地形はもちろんどこに何の木が生えているのかも聡介には手に取るようにわかる。とはいえ、十一年前とまるで同じというわけにもいかなかった。新しく生えた木や伸びた枝に危うくぶつかりそうになったり、倒木に足を取られかけたりとトラブルは絶えなかった。
それでも、幼少時から慣れ親しんだ故郷の森は、聡介の逃避行の味方になってくれた。
ただ、それを加味しても完全な闇夜の森を、それも嵐の中を懐中電灯もなしに駆け回るのは、やはり無謀な行為に変わりはなく、大人一人を抱えながら、足の一つも折らずに洞穴へと帰還できたのはつくづく幸運だったと言っても良い。
とりあえず那由多を洞窟の奥に横たえると、さっそく聡介は近くのポンプ井戸に向かった。
昼間、喉が渇いたとぶうたれる大貫のために水を汲んでやったばかりだから、井戸が生きているのは実証済みで、しかも今回は二度目ということですぐに水が出た。
この洞穴を作った人間は、やはり、ある程度の長期潜伏を想定していたのだろう。戦時中の防空壕か、それ以外の何かか。
いずれにせよ、これで今夜の飲み水には困らないはずだ。沢の水も美味いが、飲みすぎると腹を下すし、そうでなくとも雨で濁ったものは到底飲めたものではないからだ。
さっそく井戸水でハンカチを湿らせる。おそらくは複数の男たちに蹂躙されたであろう那由多を、そのままにしておくのは忍びない。一刻も早く身体を拭ってやらなければ――
いや。
本音を言えば、ただ許せなかったのだ。愛する那由多が、自分以外の男に穢され、暴かれたことが。
この期に及んで、まだ俺は……
「……誰?」
ふと背後で声がし、不覚にもびくりとなる。
振り返った聡介は、闇の中、白く浮かぶ人影に気づいて再度息を呑んだ。まさか幽霊――が、よく見るとその人影には足がある。とりあえず、幽霊ではなさそうだ。
改めて目を凝らすと、それは洞穴に横たえていたはずの那由多だった。
「な、那由多か。脅かせやがっ……って、もう歩けるのか?」
「えっ? に……兄様?」
どうやら那由多は、闇の中で向き合う相手の正体に気づいていなかったらしい。考えてみれば、聡介が能楽堂に飛び込んだ時にはもう那由多は気を失っていたのだ。聡介があの場から那由多を連れ出したことも、追手を避けてこの洞窟に逃げ込んだことも、おそらくは何も知らないのだろう。
「どうして兄様が……そもそも、なぜ僕は防空壕に……? 儀式は……儀式はどうなりましたか、海神様は……」
まるで譫言のように、儀式は、海神様はと繰り返す那由多に、聡介は痛ましさを覚える。
心と身体を踏み躙られ、辱められてもなお島を気遣う優しさと慈悲深さ。その報いがこれだというのか? 体中に残る暴力、いや凌辱の痕だと?
「もういいんだ、那由多。もういい」
そっと歩み寄り、弟の痩せた肩を抱き寄せる。
「お前は、もう何も背負わなくていい。いいんだ、もう――」
「駄目です!」
したたか胸板を突き飛ばされ、聡介は愕然となる。が、すぐに自分の立場と罪とを思い出し、悔しさに唇を噛み締めた。
ああ、そうだ。自分は、那由多にしてみれば憎むしかない裏切り者なのだ。たとえ、その裏切りが二人にとって必要なものだったとしても、那由多の心と身体に傷を負わせた事実に変わりはない。
それでも、こうして改めて拒絶されると、やはり打ちのめされてしまう。
一方の那由多は、兄を突き飛ばした反動でそのままへたりと尻餅をついた。さっきの暴力が響いているのか、腰に力が入らないらしい。そんな那由多に、資格はないと知りつつ聡介は手を差し伸べる。
「だ、大丈夫か」
「ひ……独りで……」
「えっ?」
「こ……この災いは、僕が願って……だから、鎮めなきゃ……」
「那由多!」
しゃがみ込み、那由多の肩を掴む。
嫌な予感が聡介を急き立てていた。まさか、先程のあれで心が壊れてしまったのか。聡介の母は、夫とその妹の〝儀式〟をただ目にしただけで壊れ、挙句に自ら死を選んだ。まして那由多は……
「那由多、ゆっくりでいい、俺にもわかる言葉で話してくれ」
「離してください!」
那由多は激しく肩を揺すると、聡介の手を振りほどこうと足掻く。が、聡介は、今度はその肩を決して手放さなかった。
「落ち着け。ここにはもう、お前を傷つける人間は一人もいない。……まずは深呼吸だ。そう、ゆっくり息を吸って、吐け」
「……」
今度は、聡介の言葉に大人しく従ってくれる。兄の掛け声に合わせて二度、三度と深呼吸を繰り返すうち、那由多の表情にようやく落ち着きが見えてきた。幸い、母のように心が壊れたわけではないらしい。そんな那由多の強さと健気さに心を打たれながら、聡介は弟が再び自ら言葉を紡ぐのを待つ。
やがて那由多は、おもむろに口を開いた。
「この災いは僕のせいなんです。僕の祈りが至らなかったから……」
ああ、と聡介は溜息をつく。
やはりそうだ。那由多は、この自然災害が自分のせいで引き起こされたものと思い込んでいたようだ。いかにも責任感の強い那由多らしい思い込み。だが、それはとんだ思い違い、否、思い上がりなのだ。
「馬鹿を言うな。たかが人間一人の祈りでどうこうできるほど、気象ってのはちっぽけな現象じゃない。今回のこれも、低気圧の最接近と大潮、ついでに地形の条件とが重なって生じたただの高潮だ。断じて神の怒りでも、祀津に科せられた呪いのせいでもない」
すると那由多は、信じられないと言いたげに目を剥く。実際、信じてはいないのだろう。無理もない。聡介の今の言葉は祀津の役割や存在意義を真っ向から否定するものだったからだ。
「で、でも、ただの高潮でこんな――」
「いいから聞け。先年、日本を襲った伊勢湾台風を憶えているか。あの時、伊勢湾を中心に高潮による多数の死者が出ただろう。あれだ。あの時と同じ現象が、たびたびこの島を襲っていたんだよ。そいつが海神の正体だったんだ」
ところが那由多は、それでも頑なに被りを振る。
「じゃ……じゃあどうして、兄様は島に戻ったんです。まるで……その、誰かに呼び寄せられたような……」
「ああ、呼び寄せられたさ。けどそれは、断じて海神なんかじゃない。去年、富士山頂に新しい測候所が完成したのをニュースで耳にしなかったか。あれのおかげで、早い段階から台風の発生と予測進路を把握できるようになったのさ。今回の台風もそうだ。何かに喚ばれたんだとすれば、俺はこの台風に喚ばれたんだよ、那由多」
那由多は黒い眸をはっと見開くと、やがて、ようやく安堵したのか頬を緩める。が、その目は目の前の聡介ではなく、ここではないどこかを見つめているように見えた。
「じゃあ……届いていなかったんですね。僕の願いは、どこにも……」
「願い? 一体……何を願ったんだ、那由多」
ところが、聡介の問いにまたしても那由多は心を閉ざしてしまう。一体、何を願ったというのだろう。こんな、今にも崩れ落ちそうな心で那由多は何を願い、何に縋ろうとしたのか。
「教えてくれ」
肩から頬へ手を移し、宥めるように指先でそっと撫でる。が、その指先すら那由多は拒み、ふいと顔を背ける。
「頼む、那由多」
が、なおも那由多は首を縦に振らない。ゆるゆると被りを振りながら、頑なに口を閉ざしている。ただ、その表情には明らかな逡巡が見られた。肩に残された兄のもう一方の手のひらも、殊更振り払うそぶりを見せない。
やがて。
「……僕は」
ようやく絞り出された那由多の声は、なお惑うように震えていた。
「罪を、犯しました。島を犠牲にしてでも兄様に逢いたいと……結ばれたいと、願ってしまった。いえ、きっと願ってしまったんです。僕自身も気付かない間に……だから、こんなことになってしまった。海神様の怒りを買い、おまけに兄様まで巻き込んで……僕のせいなんです。何もかも、僕のせいだ」
「……それは」
一瞬、無邪気な喜びを懐いてしまった自分を聡介は強く叱咤する。今の言葉は、那由多の想いが今も変わっていないと告げられたも同義だ。が、その事実に無邪気な喜びを懐くには、聡介が犯した罪はあまりにも大きかった。
「俺の方こそ、すまなかった。お前をこの島に置き去りにして……だが、さっきも言ったようにこれは罰なんかじゃない。そもそも、お前は何の罪も犯しちゃいないんだ。俺に会いたいと願ってしまったと、そう言ったな? けど那由多、人を愛すれば、誰しも大なり小なり身勝手になるもんだ。俺も、だからこの島を出て――」
「でも駄目なんです!」
悲鳴じみた声で絶叫すると、那由多は激しくかぶりを振る。
「僕の両親が行なった儀式をご覧になって、そして、伯母様は自ら……そうして生まれたのが僕なんです。僕は、だから罪の……」
よく見ると那由多の頬は、雨とは違う何かに濡れ始めている。その、拭ってもなお零れるものを指先で拭いながら、こんなところで那由多は躓いていたのかと、今更のように聡介は愕然としていた。
「那由多」
そっと那由多の背中に腕を回し、抱きしめる。自分にその資格があるのか――そんな自責まじりの問いは、もう脳裏を掠めもしなかった。今はただ、この哀れな弟を抱きしめたい。抱きしめて、その凍てついた身体と心を温めてやりたい。
「何をきっかけに産まれようと、俺にとって、お前はかけがえのない存在なんだよ」
そもそも母の死と那由多の誕生は、関連はあるにせよ一方がその責を負うべき類の話ではない。むしろ悪いのは、悪しき因習に今なお頑迷に縋り続ける島の連中だ。聡介の母もそれに那由多も、共にその被害者でしかなかったのだ。
「で、でも――」
なおも続く那由多の自責を、聡介は唇で強引に塞ぐ。これ以上の言葉はおそらく無意味だ。那由多の自責は理屈ではない。もっと心の奥深い場所から来ている。
だとすれば、その傷を癒すのは同じ心だ。
「……ん」
唇を重ねた瞬間、わずかに抵抗を見せた那由多だったがそれもすぐに収まり、かつての従順な唇が聡介を受け入れる。さらに深く合わせ、舌で歯列を割って奥を舐めずると、あの頃と変わらない甘く清らかな味が舌の腹に広がった。
かつて、この味が聡介には不可解で仕方なかった。なぜ那由多の身体はどこもかしこも甘いのか。それこそは海神が、祀津の人間に与えた呪いではないかと疑ったこともある。さもなければ兄弟、それも男同士でこんなにも色に狂うわけがない。
今にして思えば、だからこそ聡介は、これが呪いではないと――科学的に解明しうる闇なのだと証明したかったのかもしれない。誰に与えられたものでもない、聡介自身が手にした感情なのだと。
「……愛してる。那由多」
惜しむように唇を解き、鼻先で熱く囁く。
刹那、那由多の顔がさっと輝いて聡介は瞠目する。一瞬、見間違いかと思った聡介はしかし、それが錯覚ではないことにまた驚いた。本当に、文字通り白く輝いていたのだ。那由多の、雨と涙に崩れた端正な美貌が。
「……兄様、月が」
「月……?」
まさか、と振り返る。いつしか途切れ始めた雲の切れ間から、十五夜の青白い月が覗いていた。雨はまだ若干ぱらついている。が、この分ならもう間もなく上がるだろう。風の方も、先程までの荒れ模様が嘘のようにぴたりと止んでいる。
「……嵐が」
刻一刻と雲が失せゆく空を見上げながら、那由多が呆然と呟く。
「どうして……儀式も何も、まだ……」
「だから言っただろう。あんなものは何の根拠もない迷信だとな。海の方も、そろそろ引き潮に転じる頃だ。入り江の潮流はもうしばらく乱れるだろうが、それも朝までには収まるだろう」
そんな、と那由多が小さく呻く。闇の解明に邁進した聡介と違い、島のために祈りを捧げ続けた那由多にしてみれば、迷信だと一方的に切り捨てられたところで簡単に納得できないのは当然だ。が、それでも聡介は信じている。那由多は昔から賢い子供だった。今も、本当は聡介の言葉を頭では理解できているはずなのだ。
その那由多が、ふと満月を見上げ、呟く。
「……終わったんですね。僕らの役割は」
それは安堵と、そして一抹の寂しさが入り混じる声だった。そんな那由多の痩せた肩を、聡介は優しく抱き寄せる。
「ああ。終わったんだよ」
これからは科学がこの島を導くだろう。もちろん科学といえど善し悪しだ。例えば、今まさにこの海を襲う水銀禍は、科学文明がもたらした恐るべき弊害の一つだろう。
それでも人は未来へと進んでゆく。今は伝統に目を眩ませる島民たちも、いつかは……
「愛されても……いいんですか」
それまでぼんやりと満月を見上げていた那由多が、ふと、覗き込むように聡介を振り返る。相変わらず涙に濡れた双眸は、しかし今は、悲しみとは明らかに違う色に染まっていた。
「もちろんだ」
答えをかたちで示すように、那由多の肩を抱く腕に力を籠める。もう二度と、この手を離すまいと強く心に念じながら。
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