絶海に秘める恋唄(美形兄弟BL)

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 上陸したのは、聡介がかつて島の出入りに使っていた入り江の砂浜ではなく、その沖合に新たに設けられたコンクリートの埠頭だった。埠頭には、聡介がいた頃の島では見られなかった動力式の漁船が何隻も係留されている。漁のたびに木造の小舟を人力で砂浜から運び出していた昔日とは、文字通り隔世の感があった。  とりあえず調査観測用の資材を埠頭に陸揚げすると、聡介は運賃と、東京から持参した煙草を三箱ばかり船頭に握らせた。 「帰りもお願いします」  すると船頭は、ひどく怪訝な顔をする。 「帰り? それなら島の奴に頼めばいいんじゃねぇか? 聡介君の頼みなら喜んで引き受けてくれるだろ」 「ははは……とりあえず、先にお願いしておきますよ」  そして聡介は、前金代わりにさらに運賃を上乗せする。それを船頭は満更でもない顔でポケットに捻じ込むと、再び漁船に乗り込み、そのまま埠頭を離れていった。 「船頭さんの言う通りじゃありません? 島の人に頼んだ方が連絡の手間も省けますし」  遠ざかる船影を見送りながら、大貫が不思議そうに問うてくる。 「いいんだよ、これで」  すると大貫は、またしても訝しげな顔をした。確かに、祀津島は聡介の生まれ故郷だ。しかも聡介は、さっき船上で明かした通り島一番の名家の息子に当たる。島民に頼み込めば、誰でも快く船を出してくれるだろう――そう訝しまれても仕方がない。  だが実情は、そう単純なものでもない。  一方、聡介の抱える事情など知らない大貫は、初めて訪れる島の景色を物珍しそうに見回している。 「いや、意外でしたねぇ。職場じゃ女子職員にモテモテの係長が、こんなド田舎……失敬、離島のお生まれだったなんて」 「ド田舎で悪かったな」 「やだなぁ係長、ここはすんなり聞き流すのが大人の流儀ってものですよう――おや?」  ふと、大貫の目がある一点で止まる。と、今度はその顔がふにゃりと蕩け、さては好みの女でも見つけたのかと振り返ると、立っていたのは案の定、東京でも滅多にお目にかからない艶やかな美女だった。  愛らしい丸顔に形の良い鼻梁。程よい厚みの唇。くっきりとした二重瞼の奥では、黒い大粒の眸が聡介たちをじっと見つめている。  顔の造りそのものも美しいが、派手すぎず、かといって地味すぎない化粧は素朴な島の人間にしては異様に洗練されている。丁寧にパーマを当てた黒髪もそうだ。極めつけは、やはり島暮らしには不似合いな派手なワンピース。さては観光客かとも思ったが、それにしては特有の浮ついた雰囲気がない。  では、島に立ち寄る漁師相手の商売女か。だが、そうした女にありがちな荒んだ雰囲気も見られない。  一体、この女は……?  ところが、女の方は聡介を見知っているらしく、黒い大粒の瞳をぱっちりと見開いたまま石像のように立ち尽くしている。 「……君は、」 「ほう! これはまた綺麗な女性ですね係長――げふ!」  部下の軽口を肘鉄で封じると、黙っていろと無言の圧を込めて睨む。大貫は懲りた様子もなく肩をすくめると、おお怖い怖いと呟きながら上司に小突かれた脇腹をさすった。 「聡介さん? 聡介さんよね? 私よ、あかり。覚えてる?」 「あかり……あっ!」  ようやく聡介は思い出す。道理で見覚えがない、というより、正体に気付かなかったわけだ。彼女は石山あかり。聡介が島を出た頃は、まだ中学校に上がって間もない小娘だった。確かに、当時から美人と名高い少女ではあったが……それを踏まえても、女とはつくづく化けるものだ。 「あ、ああ……もちろん覚えているよ。見違えたな、あかりちゃん」 「そういう聡介さんは、あの頃とちっとも変わっていないのね。覚えてる? あの頃、島の女の子はみんな聡介さんのファンだったのよ。もちろん私もそう」 「へぇ、係長ってば昔からモテモテだったんですねぇ。羨まし――あいたっ!」  今度は部下のつま先を、ジッポと同じ米軍放出品のブーツで踏みしめる。余程痛かったのだろう。大貫はあんパンに似た丸顔を梅干しのようにぎゅっと顰めた。 「あら、そちらの方は?」 「あ、ああ……部下の大貫だよ。ご覧の通りの阿呆面で、実際とんでもなく間抜けな男だが、こう見えて東大理工学部で流体力学を修めたスペシャリストでね。まぁ、それ以外は本当に何の取り柄もない間抜けだが」 「ちょっと係長! こんな可愛い娘の前で間抜けを連呼しないでくださいよっ!」 「事実だろうが。さっきも、お前のせいで危うく大事な実験器具を寝台列車に忘れかけただろ」 「ひえっ、あ、それはその……スミマセン」 「実験?」  聡介の言葉に、あかりが怪訝な顔をする。 「実験って、何のこと?」 「あ……ああ。今回は祀津の人間としてじゃなく、いち気象庁職員として、この島で度々起こる例の現象について調査をしに来ただけなんだ……まぁ、島には十年以上帰っていなかったし、里帰りも兼ねて、ね」  最後の一言は、いよいよ怪訝の色を強くするあかりを納得させるべく慌てて付け加えたものだ。  確かに、島を代表する名家の跡取りが十年以上も島を空けるのは、それだけで島民に不安を与える非常事態だろう。祀津の問題は島の問題でもある。それは後継者問題とて例外ではない。  その、せっかく戻った祀津の跡継ぎに、いきなり実験がどうのと言われた日には、この島の人間なら誰でもこんな顔になる。嫁は、子供はどうする。そもそも本当に祀津を継ぐ気はあるのか。儀式は――  ところが、あかりの不安は全く別の理由から来ていた。 「あの現象って……ひょっとして、海神様の……? だったら……駄目よ。神様のなさることを調べるだなんて……まして聡介さんは、祀津家の人でしょう? そのあなたが、い、いくら何でも罰当たりだわ……」  蒼褪め、何かに怯えるように訴えるあかりを前に、早くも暗澹たる気分が押し寄せるのを聡介は止められなかった。  東京では、昔ながらの迷信は今やネオンの明かりにすっかり駆逐された感がある。そうでなくとも、年々普及率の上がるテレビが人々に新たな知識を啓蒙し、古い因習から解き放ちつつある。……が、その新しい波は、この島には今なお届いていないらしい。  元々この島の人間は排他的で、かつ保守的だ。が、古い考えに縛られた老人達ならまだしも、柔軟な若者なら味方として取り込めるかもしれないと一抹の期待を懐いていた。……が、今のあかりの反応を見る限り、それすらも難しいのかもしれない。  それでも。  祀津の家に生まれた人間として、聡介にはこの島の人々を守る義務がある。一度島を捨てておいて何を今更という話だが、それでも。 「まずは那由多と会って話がしたい。あかりちゃん、那由多の居場所は知らないか」  するとあかりは、山の中腹で入り江の村落を見下ろすように建つ鳥居を指さした。 「主人なら神社よ。基本的に、境内からほとんど出たがらない人だから」 「ありがとう――えっ?」  あかりの言葉に、聡介は耳を疑う。  主人? たった今、あかりは那由多を「主人」と…… 「まさかあかりちゃん……那由多と?」  するとあかりは、長い睫毛を不思議そうにぱちぱちさせる。 「え、ええ。三年前に前当主様がお亡くなりになって、その後、那由多さんが家を継いだのに合わせて……まさかあの人、聡介さんには何も? じゃあ、結婚式にいらっしゃらなかったのも……嫌だわ、私ってばてっきり、お仕事で都合がつかなかったものとばかり」 「ええっ、あかりちゃん、こんなに若くて綺麗なのにもう人妻――ひでぶ!」  今度は、大貫の脇腹に拳をめりこませる。が、部下の身体がくの字に折れても、今の聡介はそんな部下を気遣うどころではなかった。  父が、三年も前に死んでいた。そして、那由多は…… 「あ、ああ……那由多からは何も……そうと知っていたら、新しくできた妹に土産の一つでも用意したんだが……面目ない」  するとあかりは、いいんですよと軽くかぶりを振ると、いたずらっぽい目で覗き込むように聡介を見上げた。 「聡介さんが島に戻ってくれた。それだけで私は嬉しいの」  その後、あかりに手短に別れを告げると、聡介は大貫を引き連れて集落へと足を向けた。埠頭から村までの道も綺麗に整備されていて歩きやすい。ただ、目に見えて開発が進んでいるのは埠頭とこの村への一本道だけで、例えば、島の大半を覆う森は相変わらず手つかずに見える。 「ところで係長、さっきあかりちゃんがお話ししていた海神様とは?」 「他人の奥さんをちゃん付けで呼ぶな馬鹿。……まぁいい、海神様ってのは、島に古くから伝わる伝説だよ。例の現象も、この海神が引き起こすものと島では伝えられている。海神様の怒り、と島の人間は呼ぶがね」 「なるほど。だからあかりちゃん――失敬、あかりさんはあんなに怯えていたわけですね。神様の虫の居所をあれこれまさぐって、かえって逆鱗に触れでもしたらかなわないって……しかし、その海神様の怒りとやら、係長のお家と何か関係があるんです? 彼女も、祀津の人間だからどうだとか……」 「ああ」  部下の素朴な問いに、聡介は溜息まじりに頷いた。 「そいつを鎮めるのが、俺たち祀津家に代々伝わる役目だったんだよ」
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