絶海に秘める恋唄(美形兄弟BL)

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 宿に戻ると、荷物の中身が部屋一面にぶちまけられていた。  一瞬、空き巣にでも入られたのかと身構えた聡介だったが、散らかった部屋の奥で文机に齧りつき、黙々と計算尺を動かす大貫の姿にほっとし、同時に事情を理解する。  東京の研究所にある彼のデスクとその周囲数メートルは、いつ見ても嵐の痕のように雑然としている。おかげで清掃員からは毎日嫌な顔をされるが、片付けても片付けても結局また散らかってしまうので、近頃では聡介もすっかり整頓を諦めていた。  だが、ここは東京でも彼らの研究所でもなく、一時的に間借りする旅館の一室だ。さらに言えば、二人はこれから最低三日間はここで寝泊まりしなければならない。このありさまでは女将に布団も敷いてもらえないだろう。 「おい」  丸めた新聞紙でぱかんと部下の頭を叩く。大貫は面倒くさそうに顔を上げると、目頭を揉み揉み問うてきた。 「おや? 係長はご実家の方に泊まるのでは?」 「だったら最初からこんな広い部屋は取っちゃいない」  すると大貫は、にやりと目尻を緩める。 「ははーん。さてはあかりさんに気兼ねしてらっしゃるんですね? まぁ、綺麗な女性でしたもんねぇ。僕が係長の立場でも、やっぱり実家には泊まりづらかったと思いますよう。あんな別嬪さんが一つ屋根の下にいたら、義理の妹と知っていても落ち着きませんものねぇ」 「いや……あの子のことは昔から知っているし、今更……」 「じゃ何故です? 久しぶりの里帰りなのに。ひょっとして弟さんと何かありました?」 「……っ」  今度は痛いところをずけりと突かれ、聡介は言葉もなく奥歯を噛む。つくづく遠慮のない部下だ。研究所では人間IBMと呼ばれ、常人ならざる計算能力を備える大貫だが、その美点さえなければこんな馬鹿は絶対に同行させなかった。  とりあえず大貫の問いを無視すると、聡介は荷物から替えの下着と手ぬぐいを掴み出し、ふたたび宿を出た。  もともと火山として生まれたこの島には、良質な温泉がいくつも湧いている。島民たちは自家用の風呂は持たず、専らこうした温泉で汗を流し、日々の疲れを癒す。  聡介も、島暮らしの頃は毎日のようにこうした温泉の世話になっていた。そして、その傍らにはいつも幼い那由多がいた。  色白で線の細い那由多は、浴場ではいつも女のようだと島の子供たちに笑われた。が、聡介が助けに入るとそうした声はすぐに止んだ。取っ組み合いの喧嘩では、誰も聡介に敵わないことを知っていたからだ。那由多も、それを知っていたからこそ兄の傍から離れたがらなかったのだろう。  那由多が極度のお兄ちゃんっ子に育ったのも、その感情を恋心にまで嵩じさせてしまったのも、そんな島の閉鎖的な環境があったからこそだろう。逆に言えば、すでに当主として立派に独り立ちした那由多にとって、もはや聡介は忌むべき過去の過ちの象徴でしかない。  だから、あんなにも冷たい顔と声で……  ――出て行ってください。  それが、十一年ぶりに再会した弟が発した唯一の言葉だった。  元より感動的な再会など期待していなかった。少なくとも聡介はそのつもりだった。それでも、あるいはという期待が心のどこかに潜んでいたことに、那由多に拒絶されて初めて聡介は気付かされていた。  散々用意した言い訳は口にすることさえ許されなかった。聡介が口を開きかけた時には、早くも那由多は踵を返し、境内の奥へと遠ざかっていた。追いすがることは出来たのだろう。那由多の足取りはゆっくりで、そうでなくとも神職用の袴を身に着けた彼は、たとえ走り出したところで全力疾走とはいかなかったはずだ。それでも追いかける気になれなかったのは、彼の強い拒絶の声色のせいだった。  初めてだった。あんな那由多の声を聞くのも、それに表情も。  それは、文字通り彫像のような顔だった。笑顔はともかく怒りすら見せない頬と唇。無感動な瞳は一切の感情を映さず、硝子玉でも覗いているかのような印象を聡介に与えた。かつて聡介の腕に縋りながら悦び、乱れた愛すべき弟は、もう、この世のどこにも存在しないのだとその瞬間、聡介は心で理解した。  殺してしまった。他ならぬ聡介自身が。  それでも聡介は、少なくともあと一度、那由多と会って話をしなければならない。言い訳や釈明のためではない。聡介が長年の研究の果てに突き止めた〝海神の怒り〟の正体を説明し、自分と那由多を一族のくびきから解き放つために――わかっている。が、もう一度あの冷たい顔をした弟と会うことを考えると、どうあっても気持ちが塞いでしまうのも事実だった。  そんなことをつらつら考えながら歩いていると、いつしか聡介は浜辺へと至っていた。  至る所に那由多との思い出が残るこの島だが、二つの岬に抱かれるように広がるこの砂浜は、特に思い出深い場所だ。  泳げない那由多のために、つきっきりで練習に付き合った幼い日。やがて那由多が泳ぎを覚えると、今度は二人で岬まで競争した。一度泳ぎを覚えると、むしろ那由多の方が器用に泳いだ。海中で魚や、たまに湾内に迷い込むイルカと戯れるその姿は、アンデルセンの童話に描かれる人魚を彷彿とさせた。そのせいか、那由多は人魚の子供に違いないと当時の聡介は本気で信じていた。那由多は元々父方の叔母の子で、父親の顔は那由多を産んだ母親以外は誰も知らなかったからだ。  その浜辺では、今は漁師たちがせっせと漁具を倉庫にしまい込んでいる。迫る嵐に備えているのだろう。聡介が生まれた時から、いや、そのはるか昔から続く島の営み。それを、祀津家は綿々と見守り続けてきた。  そんな島の歴史に、本来なら聡介も身を捧げるべきだった――が、聡介は無責任にもその役目を放棄した。結果、代わりに那由多がその座に据えられることとなった。  ああ。そうだ。  兄として、祀津家の次期当主としてこれだけの不義理を働いておいて、にこやかに出迎えてくれと願う方がどうかしている。そう、出来るはずもないのだ。本来なら…… 「あれぇ? 祀津の兄ちゃんじゃねぇか!」 「本当に帰ってたんだな!」  偶然通りかかった島民の男たちが、聡介の顔を見るなり嬉しそうに声をかけてくる。彼らに限らない。中には、獲れたての魚や収穫したばかりの野菜を押しつけてくる島民もいて、これから温泉に向かう聡介は、そのたびに角を立てずに断る面倒を強いられたほどだ。宿に顔を覗かせた時もそうだった。出くわす島民は皆、聡介が犯した過去の罪など素知らぬ顔で帰りを祝ってくれた。  歓迎してくれるのは嬉しい。ただ、いくら何でも……  やがて浜辺の先に、古色蒼然とした木造りの温泉小屋が見えてくる。その色褪せた暖簾をくぐると、さっそく番台の男が珍しそうに身を乗り出してきた。彼とも、かれこれ十一年ぶりの再会になる。 「おや兄ちゃん、随分と洒落た格好――って、祀津の兄貴じゃないか! 島に帰ったって噂は本当だったんだな!」 「久しぶりです。親父さん」 「ああ。本当に久しぶりだ。……ところで、美人になっただろ?」 「えっ?」  さては、那由多のことを言っているのか。確かに、成長したぶん落ち着いた色気が加わって、生来の美貌にさらに磨きがかかってはいた……が、男の容貌をこんな言葉で褒めるのも何だか妙な気がする。 「いや、昔から可愛い子だったが、まさかあそこまで別嬪に育つとはなぁ。あれだけの美人はさすがに東京でも珍しいだろ? ん?」  なるほど、どうやらあかりのことを話していたらしい。が、いくら別嬪になろうとも今は弟の妻で、聡介にしてみれば義理とはいえ妹なのだ。今更女として見られるはずもない……実の弟を愛し求めた人間が言える台詞でもないが。 「そうですね」  やんわりと答えると、聡介は脱衣所で手早く服を脱ぎ捨て、湯場へと降りた。  風呂場に先客はなく、聡介は軽い掛け湯のあとでざぶりと湯船に身を沈めると、熱い湯の中で存分に四肢を伸ばした。東京から夜行列車を駆使しての強行軍は、正直、体力的にかなり堪えた。飛行機を使えたのなら良かったのだが、台風のせいで向こう数日の便が軒並み欠航になってしまったのだ。  台風。そう、明後日、いや早ければ明日にも九州を巨大台風が直撃する。それは、現在の偏西風の進路を鑑みるかぎり確実と言ってもいいだろう。加えて明日は大潮だ。島の人々が海神の怒りと呼ぶ現象は、きっと、いや間違いなく発生する。  そうなれば、祀津の人間は……那由多は。 「いや」  打ち砕いてみせる。一族の枷を、必ず。  やがて一人、また一人と風呂場に島民が増えてゆく。彼らも、やはり聡介の顔を見ては義妹の美貌を褒めそやした。 「いやぁ綺麗だったぞぉ二人の結婚式は。何せ、島一番の美男と美女だからな」 「けど、いくら綺麗でも肝心の子供がなぁ。あれだけの別嬪を貰ったんだ。俺だったら毎晩頑張るってのに弟ときたら」 「……はぁ」  このままでは悪いのぼせかたをしてしまいそうだ。聡介は風呂を上がると、手早く着替えを済ませて浴場を出た。  外は、先程に比べて随分と風が出ていた。熱帯性の生温く湿った風は、明らかに台風由来のそれだ。空を見上げるなら、夕焼けなど望むべくもない一面の曇り空。この分では今夜にも雨が降り出すかもしれない。  明日からは、いよいよ気象庁職員としての正念場だ。上に無理を言って大貫を借り受け、嵐の迫る故郷の島に強行軍で戻ったのも全ては明日からの気象観測のためだった。……が、なぜか気乗りのしない自分がいる。原因は、おそらく湯場での世話話だ。  あの那由多も、今は妻を――  祀津の人間なら、別におかしな話でもない。海神を鎮める儀式は、祀津の血を引く人間でなければ行なうことができない。祀津の後継者問題は島の問題でもあり、聡介も、大学時代にはすでに許嫁を宛がわれていた。先代である父が身罷った当時、島に唯一残された一族である那由多が、義務感から妻を娶ったとしても不思議では……いや。本当は、愛し合った結果結ばれた仲なのかもしれない。実際、あかりは異性としてはかなり魅力的な部類に入る。那由多が、男として彼女に惚れたとしても何ら不思議ではないのだ。  わかっている。それでも心のどこかで、那由多が無理やり妻を娶らされたと信じたがる自分がいて、そんな自分が聡介は情けなくなる。 「いや、しっかりしろ俺」  そうだ。今は過ぎた事に心を砕いている場合じゃない……  宿に戻ると、一階の食堂に黒山の人だかりができていた。狭い座敷席に十数人もの島民がへし合い、テーブルには鯛の活け造りや刺身の船盛りが所狭しと並んでいる。さては何かの会合かと思ったが、座の真ん中で完全にできあがった大貫を見て聡介は状況を理解する。 「へぇ、昔からモテていたんですか。いやぁハンサムってのは産まれた時からハンサムなんですねぇ羨ましい――あっ係長、待ってましたよぉ!」  聡介の姿に気づいた大貫が、箸を手にしたまま嬉しそうに手を振る。と、周りの島民たちも一斉に振り返り、あれよという間に聡介を座敷席へと招き入れた。 「おい大貫。何だこの状況は」  島民に勧められた焼酎を突っぱねつつ問えば、大貫はにやにやと肩を竦める。 「何って、島の人たちにごちそうになっていたんですよう。あ、どーもどーも」 「どうもじゃない!」  懲りもせず酌を受ける大貫を、聡介は慌てて引き留める。 「お前、明日は朝から潮位と気圧の観測を始めると言ってあっただろう! こんな調子で深酒して、二日酔いにでもなったらどうする!」 「いや、だって、お出しされたものを断るのは失礼でしょ。――えっ僕もハンサム? やだなぁ奥さん、本気にしちゃいますよう」 「大貫っ!」  だん、と拳でテーブルを叩く。卓上のコップが跳ね、そのうちのいくつかが倒れて中の焼酎をぶちまける。加えて気まずい沈黙が座敷を包んだが、それでも聡介は、部下から目を逸らすことはしなかった。  わかっている。こんなものはただの八つ当たりだ。  愛したはずの那由多は、すでに別の誰かと結婚していた。その那由多に、聡介はすげなく拒絶された。いずれも聡介自身の不義理が原因であって、その苛立ちを、やるせなさを、後悔を、事情も知らない部下にぶつけるのは間違っている……が、それでも。 「あのう」  そんな張りつめた空気を、女の声がやんわりと解く。聞き憶えのあるその声に、余計に苛立ちのやり場がわからなくなった聡介は一つ大きく溜息をつくと、がりがりと頭を掻きつつ振り返る。  立っていたのは案の定、那由多の妻、あかりだった。  昼間のそれも島の人間にしては派手だったが、それに輪をかけて派手なワンピースは、派手な化粧とも相まって恐ろしく煽情的に見えた。少なくとも、既婚者にふさわしい格好には見えない。 「ひょっとして、お取込み中だったかしら?」 「いや。それより、どうしてこんな場所に君が――」 「あかりちゃん! ささ、僕の隣にどうぞ。旦那とその兄貴の愚痴ならいくらでも聞いて差し上げますよ!」 「大貫っ!」  ところが聡介の制止も虚しく、大貫は勝手にあかりをテーブルに招き入れてしまう。那由多の姿はない。どうやらあかりは一人で店を訪れたようだ。そのことに少しほっとしながらも、なぜ夫を持つ女が、と余計に聡介は訝しくなる。 「那由多は?」  するとあかりは、なぜか気まずそうに目を伏せた。 「あの人なら……神社よ、ずっと」 「どうして旦那を置いて来た。こういう場には夫婦揃って顔を出すもんじゃないのか」 「おやおや係長、若いくせに随分と古風なことを仰るんですねぇ。一人で出歩くご婦人なんて、今どき珍しくも何ともないでしょ。第一、東京じゃそれこそ毎日ご覧になっているじゃないですか。うちの研究所にも一人で通う女子職員はわんさといますよ」 「……っ」  わかっている。が、それとこれとは話が別だ――いや、それを言えば、何がどう別なのだろう。妹だからと夜道の心配をしている? だが、こんな島民全てが顔見知りという中で、他家の、それも祀津の女に手を出す人間がいるとは思えない。なのにどうして、こんなにも苛ついて……  その間もあかりは大貫に酌をし、あまつさえ大貫の注ぐ酒に平然と口をつける。もはやふしだらな店の女とその客だ。 「さ、聡介さんも」 「いや、俺はいい」  義妹の酌を冷ややかに突っぱねると、聡介はとりあえず目についた刺身を口に放り込む。今日獲れた魚なのだろう、身はぷりぷりとして、しかもほんのりと甘い。やはり島の魚は鮮度が違う。東京の店で買う魚とは別物だ。  今度は醤油とわさびをつけて食すと、わさびの尖った香味と九州醤油特有の甘みを伴う塩気で何倍にも旨味が増幅し、さすがに酒が欲しくなる。が、今夜は我慢だ。明日からはいよいよ〝海神の怒り〟の観測が始まる。二日酔いにでもなった日にはさすがに目も当てられない。 「冷たいなぁ係長。でも、あれで職場じゃモテモテなんですから腹立たしい話ですよね。僕なんか、いくら女性に優しくしてもちっとも相手にされないんだから。結局、男は顔なんですかねぇ」 「東京でもやっぱりモテてるの、聡介さん」 「そりゃもう! 何せほら、手足はすらっとして遠目には外人みたいですし、あと、何て言いましたっけ、七人の侍の……みふ、三船トシゾウみたいなキリッとした顔でいらっしゃるでしょ」 「それを言えば三船敏郎だ馬鹿」  すると大貫は、しまったという顔でぴしゃりと自分の額を叩く。 「そうでしたそうでした。いやはや、野郎の名前はどうも憶えづらくていけませんなぁ……あっ、ちなみにあかりちゃんのお名前は、ちゃんとこの出来の良いお頭にインプットされてますから大丈夫ですよう。っと……あれ、何だったかな、あかりちゃんの名前」 「あかりさん、頼むからそいつにはもう酌をしないでくれ」  うんざり顔で吐き捨てると、聡介はあかりの手から焼酎の一升瓶を奪い取り、座敷の下に置いた。そういえばと手元の時計を見ると、すでに時刻は夜の八時を超えている。これ以上遅くなれば、さすがに那由多も心配するだろう。 「そろそろ帰った方がいいんじゃないか」 「えっ……あ、そうね」  ところが、立ち上がるなりあかりは軽くふらついてしまう。顔にこそ出ていないが、相当酒が入っているらしい。夫もいない席で…… 「兄ちゃん」  肩を叩かれ、振り返る。古い顔馴染でもある漁師の八木が、にやにやと聡介の顔を覗き込んでいた。 「送ってやりな。途中で倒れでもしたら弟くんが心配するだろ?」  確かに、いくら顔見知りばかりの島内とはいえ、酒でふらつく女を一人で帰すのは忍びない。まして彼女は、大事な義理の妹なのだ。ただ――  何だろう。妙に背筋がざわつく。 「あっ、ぼくもお供しますぅ――っと」  立ち上がったそばから、大貫がぼたりと尻餅をつく。こちらは完全にできあがっている。連れ出したところで足手まといになるだけだ。 「お前はいい加減、酒を止めて寝ろ」  そう部下に言い残すと、聡介はあかりを連れて宿を出た。  外は、足元すら覚束ないほどの深い闇に沈んでいた。月齢的には満月に近い夜だが、分厚く垂れこめた雨雲が一切の光を遮っている。新月の闇ですらこれほど深くはないだろう。おまけに熱帯性の湿気で空気は重く、鬱陶しいほどに生温い。  とりあえず暗所での作業用にと持ち歩く小型の懐中電灯をポケットから取り出し、足元を照らしながら夜道を急ぐ。普段はネオン眩い東京で暮らしているが、研究のために僻地へ赴くことも多い聡介は、こうした外灯もない夜道の散策には慣れている。そうでなくともここは聡介の生まれ育った島で、集落から神社までの道のりなら目を瞑っていても辿れるだろう。 「嬉しい。聡介さんが送ってくれるなんて」  その、甘く媚びるような声に、聡介は嫌な予感が的中したことを悟った。  誰がどう音頭を取っているのか、そこまではさすがにわからない。ただ島民たちが、あかりを聡介にあてがおうとしていることは確かだ。そういえば夕刻に足を運んだ湯場でも、那由多夫婦がなかなか子供を儲けてくれないと島民たちがぼやいてもいた。  祀津の後継者問題は、彼らにしてみれば島の存亡がかかる重要な問題だ。ここで聡介が〝間違い〟からあかりを抱き、子を成せば、島民としてはそれで一安心なのだろう。那由多の子だろうが聡介が孕ませようが、祀津の血を引く子に変わりはないのだから――が、問題はあかりだ。あかりは納得できているのか。島のためとはいえ、夫以外の男に抱かれることを……いや。納得どころかむしろ進んで聡介に媚びているようにも見える。  ただ、それは那由多の、当主としての面子を潰す行為でもある。  那由多も当主の座に着いた以上、妻を娶り、子をなす役目も覚悟していたのだろう。その覚悟だけは、兄として踏み躙るわけにはいかない。 「君も夫を持つ女性なら、もう、こんな真似は止すんだ」 「……え?」 「そんな、商売女じみた格好で出歩くんじゃないと言っている。那由多の兄として、弟に恥をかかせる真似だけは許せない」  祀津の女として、とも言いかけたがやめた。仮に彼女が、祀津の子を儲けるために聡介を誘惑しているのだとすれば、その言い方は逆に筋が悪い。 「あら。東京にお住まいだと聞いていたのだけど、それにしては随分と古風な物言いね。まるで島の口煩い年寄りみたい」 「……弟を、大事にしてほしいだけだ」  大事に――十一年も音沙汰のなかった自分が何を。  わかっている。今更那由多を気遣ったところで何の意味もありはしない。父が死に、島にたった一人残された祀津の人間として、心細い日々を那由多は過ごしたのだろう。いつ起こるかもわからない海神の怒りに怯えながら……そんな那由多に、今更寄り添う言葉を聡介は持たなかった。いや、持つはずがない。そんなものは、そう、一言だって。 「本当に聡介さんは、那由多さんのことしか頭にないのね」  その声は、これまでとは打って変わって刺すように鋭く、冷たかった。 「昔からそうだった。聡介さんはずっと、弟のことしか見ていなかった。あなたの背中を必死に目で追いかける女の子になんて……気づきもしなかったんだわ」 「……それは、」  彼女自身のことを語っているのだろうか。だとすれば――余計に許しがたい告白だった。那由多とは仕方なく夫婦になった。今のあかりの言葉は、そう白状したにも等しい。  この世界には、誰よりも那由多を愛しながら結ばれることの許されなかった人間がいる。同じ男、それも実の兄で、あのまま島に残っていれば那由多共々伝統の奴隷と化すしかなかった人間が。 「君の気持ちは嬉しい。それでも、今の君は那由多の妻だ」  本音を言えば、今すぐこの女を那由多から引き剥がしてやりたい。が、それは祀津家当主としての那由多の誇りを、何より、男としての面子を踏みにじることでもある。  ままならない運命に泣いているのは、何もあかり一人ではないのだ。 「そう……よね」  その後は、終始無言で夜道を歩いた。言いたいことは言い切ったのか、あかりはそれ以上口を開こうとはせず、聡介も聡介でこれ以上あかりと口を利く気にはなれずにむっつりと黙り込んでいた。  やがて二人は、ようやく無人の境内へと辿り着いた。 「ここでいいわ。ありがとう、聡介さん」 「ああ――」  聡介の唇を、ふと柔らかな感触が塞ぐ。それが、あかりの唇だと気づいた時には、玉砂利を蹴る乾いた足音が闇の奥へと遠ざかっていた。
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