絶海に秘める恋唄(美形兄弟BL)

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 翌朝。まだ夜が明けきらないうちに目を覚ました聡介は、さっそく気象観測のための準備に取りかかった。昨晩しこたま飲んだ大貫はまだ布団で眠りこけていて、とりあえず尻を蹴飛ばしてみたものの起きる様子もなく、仕方なく聡介は一人で埠頭へと出発した。  風は、昨晩に比べてさらに強くなっていた。雨はまだぱらつく程度だが、それでも、横殴りに叩きつけるそれはもはや散弾銃に等しく、腕や手で庇わなければろくに瞼も開けられない。すでに気象庁は九州全域に警報を発令。腰に提げたトランジスターラジオから流れる情報は、今や台風に関する話題一色だ。 「……っ」  レインコートのフードを目深に被り直しながら、なおも聡介は雨風に抗って歩く。  これもジッポと同様、上野のアメ横で買った米軍放出品のレインコートは、日本人にしては大柄な聡介にぴったりで、最近では、気象観測の際はいつもこれを着て作業をしている。同じく米軍放出品のブーツも、足場の悪い岩場での作業を想定し履いて来たが、まさか、歩きやすい埠頭が入江の中に新しく作られていたとは知らなかった。  その埠頭は、今は人気もなく閑散としている。普段なら、朝の漁から戻って来た島民の姿で賑わうのだろうが、いかんせん今朝は台風のせいで海が恐ろしく時化ている。こんな日に船を出したところで釣果どころか、下手をすると貴重な船を失いかねない。とはいえ、このまま台風が聡介の予想どおりの進路を取り続けるなら、船を入り江に留めておくのは逆に危険だ。  嵐とともに海が荒れ、入り江の海水が渦を巻いて村に襲い掛かる現象を、この島の人々は古来『海神様の怒り』と呼んで恐れてきた。  かつて島を訪れ、この現象について調査した人間は口を揃えて「原因は地震による津波」と断定した。事実それは、津波とあまりにも酷似した現象ではあった。研究を始めた当初は、聡介もその説を支持していた。が、古い文献を調べてみると、例の現象が起きた日付と地震の日時とがどうしても噛み合わない。それでも、文献に残らない局地的で軽微な海底地震が原因だったのではという説も一時は考えた。が、そうなると、海神の怒りが必ず嵐を伴うことの説明がつかない。  それは長いこと、聡介にとっての謎であり研究テーマでもあった。  ところが近年、これと酷似する現象が日本の全く別の地域で発生した。その現象について調べるうちに、聡介は、これこそが海神の怒りの正体なのでは、との確信を深めていった。  そして今回。聡介は、そんな自説の正しさを証明するべくこの島に戻ってきた。この島の、ひいては祀津の一族に科せられた呪いを解くために。  埠頭の突端で、先端に錘を結んだ紐を海に沈める。紐に記した目盛りを元に現在の潮位を計測すると、続いて、手元の携帯気圧計で気圧を計測した。潮位に異常は見られないが、やはり気圧は徐々に下降している。いよいよ台風上陸となれば、この数字はさらに下るだろう。  計測を終え、集落に戻る。視界の先に小さく鳥居が映り、ふと、昨晩の出来事を思い出してしまった聡介は、怒りで頭の奥がかっと燃えるのを感じた。  あんな女と、那由多は――  自分にその資格がないのは百も承知で、それでも腹の虫がおさまらない自分がいる。なぜ、あんな女とみすみす結婚させてしまったのだろう。後悔は無意味だ。が、せめて那由多にだけは連絡先を告げておくべきだった。そうすれば、父が死んだ時にも何かしらの対処が出来ただろうに……  宿に戻ると、目を覚ました大貫が食堂の座敷席で呑気に飯を食っていた。 「おや係長、この雨の中をお散歩ですか?」 「馬鹿野郎。埠頭に潮位の観測に行ってたんだよ」  ぬけぬけと問う部下にうんざり顔で答えると、聡介は宿の女将に朝食の準備を頼む。濡れたレインコートを軒先に吊るし、同じく雨でずぶ濡れになったブーツを脱ぎ捨てて座敷に上がると、とりあえず大貫の向かいに胡坐をかいた。  やがてテーブルに、炊き立てのご飯と鯛のあら汁、一尾丸ごとの焼き魚が運ばれてくる。現状、この島で褒められる点といえば、新鮮な魚料理と質の高い椿油ぐらいだろう。  さっそくあら汁を啜る。雨と風で冷えた身体にあら汁のぬくもりがじわりと染みて、思わずほっと溜息が出るも、こんな所で気を緩めている場合じゃないと自分を叱咤し、すぐに気持ちを引き締める。 「これから一時間おきに潮位と気圧のデータを取る。のんびりしている暇はないぞ。あと、本土に戻るまで二度と酒は飲むな」 「……しょうがないですねぇ」  ぶつくさとぼやきながら、大貫はむくれ顔で味噌汁を啜る。と、その目がふと何かを思い出したように聡介を見上げた。 「そういえば昨晩、あかりちゃんと何かありました?」 「は? ……いきなり何の話だ」 「あ、いえ……朝から島の皆さんが噂していらっしゃるんですよう。係長とあかりちゃんが、その、なんかこう……良い雰囲気だって」 「……なんだって?」  あれのどこが良い雰囲気だったのか。むしろ昨晩は、強いてあかりを避けていたつもりだ。今にして思えば、無意識的にあかりの欲望を察していたのだろう。 「馬鹿な……誰があんな、」 「照れ隠しは結構ですよう係長」  そして大貫は、うふふと心底愉快そうに笑う。 「しかし困りましたねぇ。よりにもよって義理の妹さんを惚れさせちゃうなんて。これが原因で弟さん夫婦が拗れでもしたら、うん、控えめに言って修羅場ですねぇ。いや困った困った」 「困ったと言いながら、やけに楽しそうだな」 「そりゃそうですよぅ。だって他人事ですもの。それに係長は、一度きっちり女性問題で痛い目を見るべきなんです。さもないと、僕のような男は救われませんからねぇ」  滅茶苦茶な理屈をぬけぬけと言い放つと、大貫は「脳みそは糖分を食いますからね」と女将に飯のおかわりを注文する。そうして、大貫にとってはもう何杯目か知れない茶碗を受け取ると、さっそく箸をつけながら言った。 「僕としちゃまぁ、嫁さんの浮気を知った弟さんが宿に殴り込んでくれると面白いんですがねぇ。いや見たいなぁ。チャップリンやキートンみたいにばたばた逃げる係長」 「いや。俺は逃げないし、そもそも浮気なんか――」 「兄様」  聞き覚えのある声に、覚えず聡介は息を呑む。この、岩を洗う清流に似た美声は、まさか…… 「か……係長」  向かいに座る大貫が、幽霊にでも出くわしたような顔でじっと聡介を、正確にはその背後を凝視している。理由は概ね察しがつく。聡介の後ろに立つ男の、この世ならざる美貌に戦慄しているのだろう。それは、初めて弟と出会う人間が、男女問わずほぼ例外なく見せる反応でもあった。 「な、何なんですか、この……えっ、人間?」 「……紹介が遅れた。俺の弟、那由多だ」  強いて事務的に告げると、意を決して振り返る。  案の定、座敷席を降りたすぐ先に立っていたのは、聡介が予期した通りの人間――祀津那由多だった。  ほっそりとした体躯に、人形を思わせる整った顔立ち。とりわけ細い鼻筋に切れ長の眉目は、腕の良い職人が丹精込めて作り上げた雛人形を彷彿とさせる。基本的に和装の似合う顔立ちだが、今日は昨日の袴姿とは打って変わって白いサマースーツを身に着けている。そういえば、この手のスーツを那由多が纏うのを見るのは初めてだ。が、違和感はなく、むしろしっくりと馴染んで見えるのは、スーツの仕立てと持ち前の高い頭身のせいだろう。身長に比して顔が小さく、等身の高い那由多は、背丈こそ十人並みだが遠目にはやたらと背が高く見えるのだ。  いや、そんなことは今はどうでもいい。  なぜ今、ここに那由多が。  あかりは、今の那由多はほとんど神社から出たがらないと言っていた。その那由多が、まして、この雨の中わざわざ余所行きのスーツで現れたということは、当然、それなりの用事があってのことだろう。 「……あかりの件か」  どうやら図星だったらしく、那由多は切れ長の目をわずかに見開く。  とはいえ、聡介の側に後ろめたい事情は何もない。確かに、口づけはした。が、聡介に言わせればあんなものは事故の範疇だ。いま島内に流れる噂も、彼らが願望まじりに言いふらす口さがない憶測でしかない。  少なくとも聡介は、あかりには何の想いも欲望も抱いていない。そのことを、今はただまっすぐ那由多に伝えたかった。何なら自分が島に戻った理由も、〝海神の怒り〟の正体すらも――  愛しているとは、もう言わない。  この十一年、那由多を想わない日は一日とてなかった。儚げな笑顔も、喜悦にむせぶ恍惚の貌も、絹を思わせる柔らかな白肌も。そんな彼の肌から漂う清冽な汗の匂いや、しっとりと濡れる黒い瞳、扇情的な紅い唇……全てが、文字通り全てが愛おしかった。それでも……言わない。言えるはずがない。ここにいるのは一人の裏切り者と、その裏切り者に置き去りにされた哀れな弟でしかない。たとえ聡介が、二人の新しい未来を想って那由多を裏切ったにせよ――  その那由多は無言のまま座敷席へ上がり込むと、おもむろに聡介の前に正座する。  洋装でもなお損なわれることのない凛とした佇まい。襟から伸びる首筋は水仙の茎に似て、つい手を伸ばし、手折りたくなる危険な衝動に駆られてしまう。その肌は、夏も終わりかけだというのに真っ白で、その新雪じみた白い額に、撫でつけた頭髪から前髪が一本はらりと零れているのがやけに扇情的だ。伏目がちの長い睫毛に見え隠れする、愁いを帯びた黒い双眸も。  ああ、知っている。  この、今は温度のない眼差しで聡介を見据える双眸が、かつて聡介の懐で縋るように濡れていたことを。歪んだ運命の中で、歪んだなりに満たされながら、兄が注ぐ熱と愛とを狂ったように貪っていたことを。  だが。もはや二人はあの頃の二人ではない。  他ならぬ聡介が、それを壊してしまった。 「言っておくが……何もかも、島の連中の取るに足らん憶測だ。本気に取られても困る」  が、那由多は黙したまま答えない。その無感動な双眸に、聡介は、この手が壊してしまったものの大きさを改めて思い知っていた。  島を出たことは後悔していない。元よりそうする他に選択肢などなかったのだから――それでも、那由多のこんな眼差しに晒されていると、自分の選び取ったものに疑問を懐かずにはいられなくなる。  この世で最も愛しい人間に、こんな悲しい目をさせてまで…… 「お願いします」 「えっ?」  意外な言葉に聡介は面食らう。罵倒されるのならまだしも、なぜ――呆然となる聡介を前に、さらに那由多は静かに三つ指を突くと、そのまま恭しく頭を下げ、言った。 「どうか僕の代わりに、あかりさんの夫になってください」
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