絶海に秘める恋唄(美形兄弟BL)

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 屋敷に戻り、軒先で傘の露を払っていると、背後で引き戸がからりと開いた。 「おかえりなさい、那由多さん」  戸口から顔を覗かせたのは、案の定、妻のあかりだった。期待と確信に満ちた眼差しは、ただ一つの答えを、彼女にとっては喜ばしい報告を那由多に求めている。  そんな無言の圧から逃れるように、那由多は土砂降りの境内へと目を戻し、言った。 「確約は……得られなかった」 「何よ、それ」  上機嫌な猫なで声とは一変、斬りつけるようなその声に、那由多は痩せた肩をぎゅっと竦める。  本当のことを言えば、確約を逃したどころの話ではなかった。  悪い提案ではなかったはずだ。たとえ兄が島の外で素敵な女性に見飽きていたとして、それでもあかりは充分魅力的な部類に属するはずだ。かつて兄と同じく島を飛び出し、大阪のキャバレーで働いた過去を持つあかりは、当時、店でも人気のフロアレディだったという。勝ち気な性格が祟ってヤクザと揉めさえしなければ、こんな辺鄙な島には絶対に戻らなかっただろう。それだけの美人を貰えるのだ。悪くない話のはずだった。  それに今回、那由多が求めたのはあかりとの結婚のみであって、神職の継承までは求めていない。神職として必要な儀式は、引き続き那由多がこなす。だから兄は、あかりだけ妻として貰ってくれれば良い。そうして二人の間に生まれた子供が祀津を継げば、祀津も島も安泰だ。島民たちも安心する。  何よりあかりも、兄との結婚を心から望んでいるのだ。そもそも幼少時から、兄一筋の女性だったのだから。  全てを丸く収めるはずの申し出だった。  それを兄は、「ふざけるな」とにべもなく一蹴した。  いったい何が気に入らなかったのだろう。が、問い返そうと那由多が口を開きかけたその時には、もう兄は乱暴に座敷を立ち、二階の客室に続く階段へと足を向けていた。その背中は見るからに激しい怒気を纏っていて、ただでさえ気の弱い那由多は、それ以上追いすがる気にはなれなかった。 「に……兄様も、突然こんな話を持ち込まれて、すぐには返答が見つからなかったのだと思う。ああ見えて、とても慎重な人だから、」 「慎重? 誰に断りもなくいきなり島を飛び出すような人が? まさか那由多さん、この期に及んで私を手放すのが惜しくなったのかしら。この三年間、ろくに私を抱きもせずに、よくもまぁ」 「よしてくれ、こんな明るいうちから、そんな、下品な話」 「下品な? ハッ、それを言えば私なんて、四六時中こんな話ばっかりだったわよ! 誰かと顔を合わせるたびに、夜はちゃんとやってるのか。早く祀津の子を孕めって! あなたがだらしないから! あなたが、夫としての務めを果たしてくれないから!」  ほとんど悲鳴じみた声で、あかりは溜め込んだ怒りをぶちまける。結婚以来かれこれ三年、ほぼ毎日のように彼女に怒鳴られているが、この金切り声だけは一向に慣れない。聞いているだけで全身の神経に針を立てられる心地がする。 「ど、努力は……しているんだ、これでも……」 「ああそう。つまり、私の身体は努力しなきゃ抱けない、女としての魅力に欠ける、と言いたいわけね」 「ち、違う……そういう話じゃ……」  力なく被りを振りながら、譫言めいた弁解を那由多は繰り返す。わかっている。悪いのは全て自分だ。あかりが想い人と結ばれなかったのも、子供が出来ず島民から白い眼を向けられているのも、全ては那由多のせいなのだ。  兄が、この島を飛び出したことも。 「わ、わかった。また……機を見て兄様を説得してみる。……大丈夫。真摯に話せば、ちゃんと聞いてくれる人だから」  その場凌ぎの作り笑いを向けると、那由多はあかりの隣をすり抜け、足早に戸口をくぐる。あかりの目を見ることはできなかった。彼女の侮蔑と敵意に満ちた双眸を目にすれば最後、辛うじて残るわずかな自尊心すら襤褸切れのように踏み躙られる予感があった。  そのまま庭に面した縁側を駆け抜け、自室として使う奥の洋室へと向かう。  そこは和風造りの屋敷の中で唯一、洋風に設えられた部屋で、今は那由多が神社の出納を始めとした事務仕事をこなすのに使っている。かつては兄、聡介が私室として用いていた部屋で、壁の本棚には、彼が当時買い集めた文集や事典、気象に関する専門書が今も残されている。那由多もたまに気分転換のつもりで手に取ることもあるが、当時まだ高校生だった兄が、よくこんな難しい本をと驚くことも多い。運動なら泳ぎ以外は何をやらせても上手かった兄だが、頭脳の方も同年代の子供に比べると抜きん出て良かった。那由多にとっては、文字通り自慢の兄だったのだ。  片や自分は――あの人にとっての自分は。 「……兄様」  ドアを後ろ手に閉ざし、そのまま板張りの床にへたり込む。  わかっている。あの人に焦がれる資格は自分にはない。  にもかかわらず那由多は、十一年ぶりに再会した兄に性懲りもなく目を奪われてしまった。男性的で逞しい体躯。目鼻立ちのくっきりとした凛々しい顔立ち。貫くような強い眼差し。汗の染みた衣服から漂う、凶暴な雄の香り――その全てが、長年の隔たりが嘘のように那由多を魅了し惹きつけた。あの頃と同じように浅ましく奥が疼くのを、那由多は何食わぬ顔で我慢するのが精一杯だった。  ――那由多。  ああ、思い出す。  あの頃、あの人はいつも那由多を優しく撫でてくれた。この生白いだけの肌を綺麗だと褒めてくれた。そんな兄の言葉があればこそ、那由多はこの、痩せてみすぼらしいだけの身体も愛することができたのだ。あの人が那由多を慈しんでくれたから、両親のいない寂しさ惨めさを埋めることができた。  その兄に抱く感情が、ただの兄に対するそれでないことに気付いたのはいつだったろう。少なくとも、中学に上がる頃には兄をそういう意味での憧れとして眺めていた。兄の逞しい体躯、凛々しい横顔、男性的で深みのある美声、次期当主にふさわしい落ち着いた物腰……そんな兄に歪な想いを抱きながら、那由多は、年頃になると自分で慰めることを覚えていた。もちろん罪悪感はあった。血筋で言えば従妹に当たる人で、でも幼い頃から兄弟として育てられた人間だ。しかも同性の。それでも那由多にしてみれば、溢れ出る想いの方がなお強かったのだ。  それでも禁忌は禁忌だから想いは秘めなければいけない。ただでさえ狭い島では、そうした噂は燎原の炎よりも早く広まってしまうし、一度広まってしまえば最後、それこそ死ぬまで、いや一族が滅びるまで後ろ指を指される羽目になる。まして那由多は、一応は祀津の血を引く人間だ。たとえ子供でも軽薄な真似は許されなかった。  それでも島の少女たちが無邪気に兄のことを噂していると、やはり那由多は辛かった。血が近いのはまだ許せた。従妹同士でも娶せることもある狭い島だったから。問題は、あの人と同じ性を持って生まれたことだ。少女たちの素朴な憧れを耳にするたび、なぜ同じ男として産まれてしまったのかと、そう、那由多は自問せざるをえなかった。  でも。  結果を言えば、あの人は那由多を求めてくれたのだった。  あれは那由多がまだ中学二年の頃。父が神社関連の用事で島を留守にした夜、島を激しい嵐が襲った。家ごと揺らすような風に怖くなった那由多は、その日たまたま帰省していた兄の布団にたまらず潜り込んだ。他意や下心はなかった。逆に、そんなものがあれば後ろめたさと照れ臭さで素直に縋ることはできなかっただろう。が、その時はただ恐怖から逃れたい一心で、気付くと兄のぬくもりに庇護を求めていた。  那由多を抱きしめる兄の懐は大きかった。大きくて、それに強かった。  そんな兄の腕に包まれながら那由多は、やがて、安堵とは違う奇妙な感覚に襲われ始めた。何だかふわふわとして、そのくせ身体の奥はぞくぞくと痺れるようで。風邪かとも思ったが何かが違う。やがて、その正体に気付いた那由多が慌てて布団から逃れようと試みるもすでに遅く、兄の腕の中で、那由多は触れもせずに果ててしまっていた。  ごめんなさい。罪悪感と羞恥心とで混乱に陥りながら、涙ながらに那由多は謝った。そんなつもりじゃなかったんです。本当に、ただ嵐が怖くて、でも兄様の腕があまりにも優しくて、つい――  そんな那由多の言い訳は、兄の唇によって封じられた。  その後のことは、まるで夢を見ているようだった。兄と熱い口づけを交わしながら、那由多の身体を貪るように撫で回す兄の力強い手を感じた。最初は服越しに。やがて、その感触がもどかしくなる頃、今度はその手が浴衣の裾を割って内股に滑り込んできた。  その手に、那由多は達したばかりのそこを包まれ――生まれて初めて、誰かに与えられる悦びを知った。  ようやく那由多が我に返った時、目の前の兄はなぜか泣いていた。すまない、と譫言のように繰り返す兄の頬を撫でながら、誘われるように那由多も泣いてしまったことを覚えている。  ――どうして泣くんです。  自分も泣きながら、気付くとそう兄に尋ねていた。  ――許されないことをした。お前は大事な弟だ。なのに。  ――僕はずっと、兄様だけをお慕いしていました。この感情も、では、許されないのですか。  那由多の言葉に、一瞬、兄は酷い痛みを堪えるように顔を顰めた。今にして思えば、あの表情には深い事情があったのだろう。が、この頃の無知な那由多は、その意味を正しく汲むことはできなかった。  それからは、兄が帰省する日の夜は決まって父の目を盗んで求め合った。兄が同性の、しかも弟として育てられた那由多を求めた理由など知らない。ただ那由多は、仮にそれが刹那の欲望が招いた結果でも構わなかった。どのみち実ることはないと諦めていたはずの恋だ。であれば、たとえ間違いが発端だったとしても始まってくれただけ那由多には奇跡だったのだ。  初めて後ろで結ばれた夜は、痛みに喘ぎながらもなお悦びが勝った。兄の力強い熱は、いつだって那由多を安心させた。父の顔を知らず、母にも早くに先立たれ、心の底では常に不安が燻ぶっていた。自分は何者なのか、ここにいても良いのだろうか――そうした不安が、兄に求められる瞬間だけは和らぐ心地がした。  ――那由多。俺の那由多。  那由多を抱きながら、兄は決まって那由多の名前を繰り返した。絶頂と恍惚に翻弄される那由多の意識を、必死に現世に繋ぎ止めるかのように。  幸せだった。  だが、今にして思えばあの頃の幸せは幻だったのだ。薄氷の上でそうとは知らずに舞う踊子。その氷が割れた時、口を開けて待っていたのは余りにも残酷な真実だった。兄の熱以外は何も要らないとさえ思った那由多が、島を飛び出した兄を追いかけることを断念するほどの――  それでも再会すれば、身体は否応なく疼いてしまう。あの爛れた日々を思い出してしまう。ベルトを緩め、後ろに手を伸ばせば、そこは早くも蕩け、兄の熱を待ち侘びるように浅ましくひくついていた。 「に……兄様……っ」  身に着けたものが窮屈に感じられ、島外で仕立てた一張羅に皴が寄るのも構わず乱暴に脱ぎ捨てる。そのまま下着も脱ぎ捨て、あられもなく下半身を露わにすると、硬い板張りの上で身を捩りながら前と後ろを同時に慰めた。 「あ、あぁ、兄様……っ、兄様……ぁ」  やがて身体の奥から何かがこみあげて、そのまま那由多は手のひらに熱を放つ。が、それは底なしの虚しさへの入口でしかなかった。兄のいない十一年、幾度となく噛みしめた切なさと虚しさ。自分は、あの人に置き去りにされてしまった――その事実を思い知らされる瞬間。  だが今は、そうした虚しさとは別の疑問が那由多の胸を占めていた。 「……どうして」  荒い息をつきながら、誰に問うでもなく問いかける。  なぜ、兄様は島に戻ったのだろう。兄様にとっては忌まわしい因習が残るだけのこの島に、どうして……
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