絶海に秘める恋唄(美形兄弟BL)

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「困るんですよねぇ」  振り返ると大貫は、左手に鉛筆、右手に女将に作らせたおにぎりを握りしめたまま、うんざり顔で上司に言った。 「そんな、絵に描いたような仏頂面で上司に居座られますと」 「別に構わんだろ。どのみち机に向かってりゃ俺の顔は見えないんだから。いいから作業に集中しろ」 「ええ、確かに顔は見えませんよ。見えませんがね、でも、わかるんですよぅ。もう何年、係長の下で働いてると思ってるんですか。そうでなくとも背後で檻の中の猛獣みたいにうろうろされたら、嫌でも気になるってもんです」 「し……仕方ないだろ。いま部屋の外に出たら……」  先刻、埠頭へ潮位の観測に出かけた聡介は、宿に戻ったところで島民たちの酒盛りに捕まり、またしてもあかりの話を蒸し返された。那由多が聡介に妻を託したことも、すでに島中に知れ渡っており、ただでさえ娯楽に飢える島暮らしの彼らは、今や完全にこの話題で持ちきりだった。  いや、おそらく理由はそれだけではない。  彼らは望んでいたのだ。祀津の子を儲けてくれる新しい当主を。その意味で、聡介ならあるいはと期待しているのだろう。だとすれば、彼らにしてみればようやく島の安泰が保証されたも同然だ。この祝祭めいた雰囲気も、おそらくはそうした事情が理由だろう。  だが。彼らは気付いているのだろうか。  彼らのそうした態度が、那由多の当主としての、男としての矜持を傷つけていることを。 「まぁ、お気持ちはわからないでもありませんがね。元島民の係長にこんなことを言うのも何ですが、ちょいと酷すぎやしませんか、ここの連中」  そして大貫は、手にしたままのおにぎりを口の中に押し込むと、ごくんと一気に嚥下する。まるで鵜かペリカンだ。 「さっき島の奴らが話しているのを小耳に挟んだんですがね、あいつら、もうすっかり係長に神社を継がせる気じゃないですか。これでやっと跡継ぎが産まれる、兄ちゃんならきっと役目を果たしてくれる、なんて」 「ああ……らしいな」 「らしいな、じゃありません。僕が那由多くんの立場ならやりきれませんよ。せっかく貰った綺麗な嫁さんを、何年も音沙汰のなかった兄貴にいきなり差し出せだなんて。那由多くんはまだ若いし、お二人も結婚してまだ二、三年でしょ? 子供ぐらい気長に待てばいいのに何なんですか、あの物言いは」  ほとんど一息に吐き捨てると、大貫はむすっと腕を組む。そんな部下を見下ろしながら、あいつもこんなふうに怒りをぶちまけてくれたなら、と聡介は少し切なくなる。  いっそ、殴りかかってきてほしかった。妻を持つ夫として、男として――そうなれば、あとは単なる兄弟喧嘩だ。殴って殴られて、ほとほと頭が冷めたところで落ち着いて話をすればいい。  だが那由多は、それすらも聡介に許さなかった。  やはり心を閉ざしているのだろう。無理もない。何も告げずに島もろとも弟を捨てた不肖の兄に、今更胸襟を開いてほしいと望む方がそもそも無茶なのだ……でも。 「俺は……どうすればいい」 「へ?」 「これ以上、あいつを傷つけたくない。そもそも俺は、あいつの矜持を踏み躙るために島に戻ったわけじゃないんだ。このままでは……たとえ俺が、ひかりちゃんを貰わずに東京へ戻ったとしても、那由多はきっと、惨めなままだろう」  だからこそ、もう一度那由多に会って話がしたい。那由多を傷つけるつもりはなかったこと。黙って島を出たことを今でも申し訳なく思っていること。その上で、今はただ那由多の幸せだけを願っていること……  愛しているとは、もう言わない。  自分にはもう、それを伝える資格すらないのだから。 「大好きなんですねぇ、弟さんが」 「えっ? ……ああ、まぁ」  一瞬ぎくりと身構えるも、単なる好意への言及だと気づいて慌てて聡介は頷く。いや、むしろそちらの意味で取るのが一般的なのだろうが。 「だったら、もう一度きちんと話し合うべきですよ。どうして那由多くんがあんな提案を持ち込んできたのか。せめてそれが那由多くん本人の意思なのか、それとも島の連中から食らう突き上げのせいなのか。それぐらいは確かめてもバチは当たらないでしょう。前者なら兄弟同士の話し合いになりますが、もしも後者で、その上で那由多くんが望むのであれば、そうした前時代的な島の空気そのものを変える方法を一緒に考えてやりましょう」 「……それは、」  まさに正論だ。そんな人として当たり前の正論を、まさか、この男の口から聞かされるとは聡介は思ってもいなかった。 「お前も、たまには真っ当なことを言うんだな」 「たまにはとは何ですかっ! 僕はいつだって真っ当ですよっ!」  そして大貫は、むぅと唇を尖らせる。丸い顔からそこだけ突き出した唇は、ひょっとこの口を思わせた。  ともあれ、そう、まずは話し合うことだ。那由多が何のつもりであんなふざけた提案を聡介に持ち出したのか、その真相だけは聞いておきたい。が、可能性としては、やはり島民の突き上げという線が堅い。それは、温泉での島民たちの会話を踏まえても明らかだ。  何より、那由多は昔から責任感の強い弟だった。約束は必ず守ったし、与えられた仕事や言いつけは必ずこなした。 「そうだな。まずはあいつと話し合わなくては……が、当面はとりあえずこっちだ。何とか島の連中を説得して、この現象が科学的なものだと、正しく対処すれば避けられる災害だと伝えなければ」 「そうですね。うん、そうすりゃ那由多くんの件もおのずと解決、一石二鳥というわけです。そもそも島の連中が那由多くんにあかりちゃんを宛がったのも、それを今度は係長に宛がおうとするのも、言ってしまえば島のくだらない伝統のせいですからね」 「あ、ああ……そうだな」  確かに、こちらの件が片付けば自ずと那由多の件にも光明が差す。当事者の聡介が冷静になれない分、島民ではない大貫が頭を回してくれるのが助かる。いや、基本的に頭の回る男ではあるのだ。その回し方がいちいち下世話なだけで。  ともあれ、まずは島民を集めて〝海神の怒り〟の科学的な説明をしなければ。その上で、具体的にどのように対処すべきかを指示する。もちろん不安はある。古い因習に縛られる島の連中が、果たして聡介の説明を受け入れてくれるかどうか。だが、聡介は成し遂げなくてはならない。そのためにこそ島を飛び出し、那由多に背負う必要のない苦しみと重責を背負わせてしまったのだから。  そう、この時のためにこそ俺は…… 「そうと決めたら、まずは島民を集め――」  凄まじい轟音が部屋を揺るがしたのはそんな時だった。  咄嗟に身構え、差し迫った身の危険がないことを確かめると、今度は窓に飛びつき、建付けの悪い雨戸を力任せにこじ開ける。が、何も見えない。外は昼間とは思えないほどに暗く、そうでなくとも激しい雨風のせいで視界がまるで利かないのだ。  海のある方角からは、今も雨風の音に紛れて何かが擦れ合う不吉な音が聞こえてくる。が、ここからではその正体すら確かめようがない。 「何でしょう、今の音」 「見てくる」  すぐさま部屋を飛び出すと、聡介は転がるように階段を駆け降りた。階下で能天気に酒盛りを続けていた島民たちも、さすがに今の音には気づいたようで、宿の窓や入り口からこわごわ外を覗いている。そんな島民たちを掻き分けるように店を出ると、聡介は海の方へと全速力で駆けた。  やがて目の前に現れた光景に、聡介は雨の中、呆然と足を止めた。 「……これは」  昨日までの、多少波はあるものの穏やかな入り江は今は名残すらなかった。早くも砂浜を呑み込んだ海は、浜に陸揚げされていた小舟を押し上げながらじわじわと、しかし確実に膨張を続けている。先程の轟音は、その小舟が海辺の漁具などをしまう小屋にぶつかって薙ぎ倒した音だったらしい。 「海神様だ」  聡介に続いて駆けつけた誰かがぽつりと呟く。呟きは次第にざわめきと化し、ざわめきは、瞬く間に恐慌と化していった。 「海神様だ、海神様の怒りだ!」 「違うッッ!」  そんな島民たちの声を薙ぎ払うように、嵐の中、聡介は声を限りに叫ぶ。 「こいつは、ただの自然現象だ! 科学によって克服しうる自然災害だ! 断じて海神の怒りなんかじゃない!」 「黙れ」  目の前の島民が、冷ややかに吐き捨てる。声の主は、昨晩も聡介にあかりを見送るよう勧めた漁師の八木だった。 「祀津モンのくせに島を捨てたガキが、いい加減なことを言うんじゃねぇ。それともあれか。鎮めの儀式をやるのが嫌なのか。普段俺達が、安くねぇ負担金をお前ら祀津家に払ってんのは何のためだと思ってる」 「……っ」  その言葉に、改めて聡介は愕然となる。  島を捨てたことを責められるのは、もとより覚悟の上だったから何とも思わない。むしろ、温かく出迎える島民たちを不気味に感じていたほどだ。  愕然としたのは、彼らの祀津に対する認識だ。  薄々わかってはいた。彼らにとって祀津は道具に過ぎないのだと。それでも、この道具は生きた人間で、幼い頃から世話を焼いてくれた大人たちにこんな言い方をされれば、当然、傷つきもする。……いや、百歩譲ってそれも構わない。問題は、こんな場所で十一年ものあいだ那由多を独りにしてしまった事実だ。  こんな島に、那由多はずっと、独りで…… 「さっさと儀式の準備をしろ。男同士じゃできない、なんて言わせねぇぞ」 「ぎ……儀式なんか無意味だ! そんなものをいくらやったところで収まらないし、逆に、やらなくとも勝手に収まるんだ! こいつはそういう現象なんだよ! 科学で証明できる類のな!」 「何が科学だ! いいからさっさと神社に行け!」  見ると、他の島民たちも責めるような目で聡介を睨みつけている。一切の理解と和解を拒む頑迷な双眸に、今更のように聡介は自分の見立ての甘さに愕然としていた。  ああ、そうだ。  仮にもこの島の連中が、こちらの言い分に耳を傾けるはずなどなかったのだ。あんな残酷な儀式を、血を分けた実の兄妹に強いたこいつらが……
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