絶海に秘める恋唄(美形兄弟BL)

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 空を震わす轟音に、那由多ははっと目を覚ます。  無益な快楽を貪るうちに、つい、板張りの上で寝入るか気を失うかしていたらしい。慌てて着衣を整えると、転がるように部屋を飛び出し、スーツや足元が濡れるのも構わず靴下のまま縁側を降りた。そのまま庭を駆け抜け、枝折戸をくぐって境内に出る。  音は、なおも続いていた。先程のような轟音でこそないものの、何かが軋み、裂ける音が闇の奥から殷々と響いている。これは、高潮で海に押し上げられた漁船が海沿いの建物を薙ぎ倒す音で間違いない。長くこの島に暮らしていれば、その程度の状況は目視で確認するまでもなく把握できる。  まさか、海神様の――  いや、と那由多は被りを振る。ありえない、否、考えたくもない。よりにもよって兄様が島に帰った翌日に――だが、なおも闇から届く轟音は、那由多の不安があながち杞憂ではないことを伝えていた。  ここの入り江は、普段であれば嵐の時でも波は小さく、近くを航行する船の一時的な退避先に選ばれることも多い。ところが数年、あるいは数十年に一度、普段の穏やかさが嘘のように荒れ狂うことがある。湾の中で膨張した海は沿岸の集落を呑み込み、家を薙ぎ倒し、その瓦礫で逃げ遅れた人々を無惨に擦り潰す。その恐るべき現象を、昔からこの島の人々は〝海神様の怒り〟と呼んで恐れてきた。  幸い、この二十年はそうした現象に見舞われることもなく、島は平和な時間を過ごしてきた。最後に〝海神様の怒り〟が起きたのは今から二十年以上も前。那由多が生まれる一年ほど前のことだ。  それでも祀津の血に刻まれた記憶が、これは〝海神様の怒り〟の前兆だと告げている。一刻でも早く儀式を遂行し、これを鎮めよと――  でも。  それだけは、何があろうと兄に求めるわけにはいかなかった。あのような因習が、儀式が存在したからこそ兄は幼くして大切な人を失った。その儀式を今度は兄に強いるなど、いくら面の皮が厚くとも出来るわけがない。まして、その相方を務める那由多は――無邪気に求め合った昔日ならいざ知らず、あの事実を知った今の兄にとって那由多は、もはや母親を奪った悲劇の象徴でしかないのだ。 「よかったわね、那由多さん」  ふと背後で声がし、てっきり一人だと油断していた那由多はぎくりと身構える。振り返ると、雨の中に傘を差して立っていたのは妻のあかりだった。 「海神様がお怒りになるのと時を同じくして聡介さんが島にお戻りになるなんて。余程運に恵まれているのね。それとも……祈ったのかしら、海神様に。島を滅茶苦茶にしてくれって」 「な……んだと?」  大抵の陰口や誹謗中傷には慣れた那由多だが、さすがに今の言葉だけは聞き捨てならなかった。元よりあかりに愛などない。島の人々が、祀津の血を引く子を増やすためだけに無理やり宛がった女性だ。それはあかりも同様で、ヤクザに作った借金を島に肩代わりしてもらう代わりに仕方なく祀津に嫁したのだ。そんな女性に、妻としての優しさも、最初から期待などしていない。  それでも、那由多も人間である以上、どうしても許せない言葉はある。 「ふ……ふざけるな。誰がそんなこと……」  夫として、男としてならいくら詰られようと構わない。が、神職としての自分を侮辱されることだけはどうしても許せなかった。  父の死を機に神職を継いで早四年。その間、那由多は一日も欠かすことなく島の安寧を祈り続けてきた。凍える冬の日も茹る夏の日も、風邪で倒れ込みそうな時でさえ祝詞だけは欠かさず神に捧げてきた。その自分が、仮にも島の滅亡を望むはずがない。  それは、自分に何一つ誇る部分のない那由多が唯一縋る矜持だった。逆に言えば、それを奪われることは自分が生きる意味そのものを失くすことを意味した。その守るべき一線はあかりも解っているはずで、それでも彼女に武士の情けを期待する自分がいたことに、今になって那由多は気付かされていた。  そのあかりは、風の中、傘がたわむのも構わずなおも冷ややかに那由多を見つめる。一切の共感を拒むその目は、蛇かトカゲのそれを思わせた。  ああ、そうだ。  この女はいつだって僕を踏みにじった。理解もせず寄り添うこともなく、ただ一方的に、ままならない人生への苛立ちを僕にぶつけた…… 「確かに、夫としての僕は失格だったのかもしれない。でも……それでも神職としての僕は、誰に非難される謂れもないはずだ」 「ええ、そうね。この三年間、あなたはお勤めに対してだけは本当に熱心だった。……でもね、那由多さん。私には、あなたのその熱心さがまるで何かの罪滅ぼしに見えて仕方なかったのよ」 「……罪滅ぼし?」  彼女の気遣う言葉に含まれる棘はいつものことで、受け流すべきだと解っている那由多だが、その単語には反応せずにはいられなかった。  するとあかりは、針にかかった獲物を見る目でニタリ、と笑う。 「本当は望んでいたのでしょ? こんな狭くて窮屈なだけの島、さっさと滅びてしまえばいいって。ええ、ええ。そうすれば心置きなく島を捨てて、お兄様を追いかけることができるものね。でも、祀津の人間としてそれだけは望んじゃいけない。その罪悪感から目を背けたくて、あなた、あんなにも熱心に神様にお祈りしていたのではなくて?」 「な……」  何を馬鹿な。そう言いかけて、結局、何も反論できない自分に那由多は気付く。那由多自身も気付いてない病巣を、臓腑の底から引きずり出された心地だった。認めたくはない。だが、ひょっとすると自分は――いや、その前に何故彼女は知っている。那由多が兄を、そういう意味で慕っていたことを。  呆然となる那由多に、おもむろにあかりは歩み寄る。 「知ってるわよ。那由多さん、あなた本当は、あの人と愛し合っていたんでしょう?」 「い……いや、それは」 「隠しても無駄よ。だって匂うもの。私と同じ、浅ましく男を求める牝の臭いが……気付いていないとでも思った? お生憎様。女の勘を舐めないことね」 「……」  今度こそ那由多は言葉もなかった。彼女に対して抱く反感すら消し飛ぶほどの自己嫌悪と罪悪感。ああ、そういうことなら彼女の敵意や軽蔑にも納得がいく。彼女にとって那由多はただの恋敵であり、想い人を奪った張本人に過ぎなかったのだ。  そんな二人でも、この島では夫婦として暮らす他なかった…… 「あ、ああ……けど、それは昔の話だ。今は……島の将来のためにも君をあの人に娶せなければと本気で思っている」 「そうね。そうして貰えると助かるわ。でも今は、これをどうするかよ」 「これ?」 「だから、海神様の怒りよ」  そしてあかりは、細い顎を海の方に軽くしゃくる。 「鎮めるには儀式が必要なのでしょう? 祀津の血を引く者同士で……私が言いたいこと、わかるかしら」  そしてあかりは、冷ややかに、嘲るようにニタリと笑う。その笑みが意味するところに気付いた那由多は、不本意にも小さく息を呑んだ。 「ば……馬鹿を言うな! だ、第一、男同士で儀式をしても、その、」 「あら。言い伝えによれば、祀津の血を引く者同士なら別に誰が臨んでも構わないのでしょう? だからこそ先代様も、お兄様が島にいらっしゃる頃は結婚を急かさなかったんじゃないの。いざとなればあなたたち二人に神事を任せれば良い。さもなければ、あなたが先代様と――」 「やめろッッ!」  ほとんど無我夢中であかりの言葉を拒む。これ以上の言葉は、もう耳にしたくもなかった。  事実、それはあまりにも汚らわしい想像だった。が、同時に納得も出来てしまうのだ。誰よりも島と祀津の未来を案じていたはずの父が、なぜ、島の将来に必要な次世代の誕生を急かさなかったか。急ぐ必要がなかったからだ。神事に耐えうる年頃の人間が二人もいれば、当面はその二人に任せれば良い。よしんば長男が進学のために島を離れていたとしても、父自身まだまだ儀式をこなすことのできる年齢だ。たとえ実の息子が相手でも。その証拠に父は、兄が島を捨てた後も那由多に結婚を急かすことはなかった……  ふと寒気を覚えて、覚えず自分を抱きしめる。  叩きつける雨ですっかりずぶ濡れのシャツは、肌に貼りついたまま容赦なく体温を奪ってゆく。が、今、那由多を襲う寒気はそれだけが原因ではなかった。  恐ろしかった。この身に流れる血に科せられた呪いが。  思えば、兄が島を飛び出したのもこの呪いが原因だった。が、兄にはまだ逃れる権利があった。この呪いのために兄は大切な人を失ったのだから――しかし、那由多にはその権利すらない。那由多がこの世に生を享けたのは、まさに、この呪いが存在したからこそなのだ。  自分は、呪いの子だ。  そんな自分に、あの人を愛する資格などなかったのだ。なのに…… 「ほら、とっととなさい。簡単でしょう。かつてあの人と散々したことを、またすればいいだけのこと。むしろ感謝なさいよ。海神様がお怒りになったおかげで、またあの人と結ばれる立派な大義名分が出来たんじゃないの」 「か……感謝だと……お前、何を言って……」 「うるさい! 本当は嬉しいくせにいつまでもごちゃごちゃと! いいからさっさとあの人を呼んで、抱かせればいいじゃないのよ! そう、女みたいに! 好きなんでしょうあの人が! じゃあ簡単でしょう!?」 「い――」  嫌だ。あの人に、そんなことを強いてはいけない。そうした島の伝統があの人を傷つけた。だからあの人は島を捨てたのだ――なのに。 「……お願いだ、もう、あの人を巻き込まないでくれ」  そのためなら――あの人を巻き込まずに済むのなら何だってする。神がこの命を差し出せと求めるなら応じよう。が、あの人だけは駄目だ。あの人を巻き込むことだけは許さない……ああ、そうだ。そのためにこそ自分は祈りを捧げてきたのだ。雨の日も風の日も。だから……  だから駄目だったのだろうか。  本当は、もう一度あの人に逢いたくて。結ばれたくて。  そんな邪な想いが通底する祈りなど、元より届くはずなどなかったのだ。 「じゃあどうするの!? ねぇ、他にどんな方法があるっていうのよ!」  ほとんど悲鳴じみたあかりの叱責に、那由多は黙って被りを振る。わからない。もうどうにもならない。島は滅びる。全ては那由多が犯した罪のために。そして那由多には、その償い方さえわからないのだ。 「すまない、あかり……すまない……」  跪き、妻を前に玉砂利に額を擦りつける。そんなことで兄や島に犯した罪が償えるはずもない。それでも今は、こうして誰かに詫びる他に心を鎮める方法はなかった。 「すまない……本当にすまない……」  ――許さない。  ふと、聞き覚えのある声が耳元でする。はっと身を起こすと、那由多を見下ろしていたのはあかりではなかった。凛々しく男らしい顔立ち。くっきりとした眉目は子供の頃から那由多の憧れだった。その瞼の奥に光る強い意志を秘めたその目は、しかし、今は強烈な憎悪を込めて那由多を静かに見下ろしている。 「に……いさま……?」  ありえない。なぜ兄様がここに――が、その問いに答えが与えられるよりも先に、兄が、聡介が口を開く。かつて那由多を慰め、思うさま啼かせた唇。この、厚く柔らかな兄の唇が昔から那由多の憧れだった。那由多の紙のように薄い唇と違い、男性的で精力的な印象を与えるそれが。  その唇が新たに紡いだのは、しかし、かつて兄がよく口にしたような優しい言葉ではなかった。  ――お前のせいで俺の母さんは死んだ。俺は、お前を絶対に許さない。
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