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「河童巻きを。」
白い割烹着に飛び散った福神漬けの赤いしみに濡れたふきんを押し付けていた。過疎化も甚だしい地方の市役所の閑散とした食堂の空気を、その透明な声が静かに震わせた。私はその声にそっと引き上げられるように顔をあげる。その透き通った目が私の淀んだそれとぶつかるのを感じた。鈍い音が聞こえるようだった。
早朝の仕込みから働いていた定年過ぎの林さんは旦那さんの介護のため、早々に帰宅していてこの時間厨房には私一人だ。職員がたくさんいるわけでもなく、長蛇の列ができるようなことも無い、地味で簡素な食堂だが一人だとそれなりに忙しい。一通りのお惣菜や仕込みは林さんがあらかた準備をしてくれているので、そこまで困ることは無いがどっと疲れる。経験したことのない接客と、パソコンしか触ってこなかった弱っちい白い手に触れる、骨髄を凍らせるような冷水や火傷しかねないお湯、予想外に重い雪平鍋やフライパンなどの調理器具。一度手につくとベタベタとまとわりついてなかなか取れない調味料や、体に染み付いていくような出汁の匂い。何よりふとした時に磨いたステンレスや、食器棚のガラスに映る白い三角巾と割烹着姿の自分の表情。心もとなげで、不安そうで、その目には何も映っていなかった。数ヶ月前、常連の乗客と化していた最終電車の黒い窓に映るそれとまったく変わりばえのない姿がよく磨かれたステンレスに少し歪んで映っていた。
そこに写る私の背景はガラリと変化したのに、頑なに変わらない私がイライラさせるような表情でそこで変わらず息をしている。私という存在が私自身をひどく消耗させていた。いつ壊れるともしれないおんぼろのバッテリーを頼りながら生きているような、心もとない思いにいつも囚われていた。
「加瀬さんはいつも不機嫌ね。」
林さんは笑ってそんなことを言う。悪気もなさそうに、まるで子供のような無邪気さで言う。そんなことありません、ただなぜかひどく疲れるんです。
「そんなことありませんよ。」
困ったように私は笑って言う。思っていることの後半は口に出さない。早朝から働き、その後も介護が延々と続く林さんの方が疲れているはずだし、現状ほとんどニートのような私がそんなことを言えばただ恥ずかしいだけだ。作り笑いもうまくできない私を見て、林さんは可笑しそうにただクスクス笑う。そうして、小さい体に、少し違和感を感じさせるほどの頑丈で幅広の腕を持ち上げて私の背中をパシパシ叩く。痛い。けれど少しほっとする。その手のひらは私のそれより小さいはずなのにひどく大きな存在感があった。長い間誰かの背中をさすり、包み込んできた手のひらはその皺の間に温度の粒子を蓄えているようだった。
ときどきその腕にすがりついてわんわんと泣きたくなる衝動に駆られた。私の頑なに閉じた心はその度に私を押しとどめ、不完全な作り笑いを無理やり引っ張り出しては顔に貼り付けた。そんな私をわかっているかのように林さんはなんども手のひらを私の背中にパシパシと打ち付けた。
顔を上げた私の顔にその人は微笑むわけでも、顔をしかめるわけでもなく淡々と言葉を繋いだ。無関心という言葉を絵に描いたようなその表情に私はいつものように釘付けになっていた。
「2本お願いします。」
「…はい。」
お昼1時。お昼のピークを過ぎた頃にいつも現れる河童の彼だ。いつも河童巻きしか食べない。直径3cm、長さ10cmに満たないほどの幼児でも物足らなくて泣きわめきそうな質素極まりない河童巻きをいつも忠実に2本食べる。
「河童巻きしか食べないから河童だなんてあなた。」
林さんに彼のことを伝えると、クスクスと可笑しそうに笑われた。もちろん私もそれだけで決めつけたわけでは無い。
「でも、河童です、間違いなく。」
それ以上に河童の彼が河童だという証拠を提示するわけでもなく、私はただ確信だけを込めて林さんに打ち明けた。林さんは笑って取り合わなかった。信じるわけがないことは承知の上だった。通りを歩いている人間のうち、3人に1人が河童だというのなら信憑性もあろうが迷信めいた存在が真昼間の市役所の食堂に河童巻きを食べに来ていると熱を込めて語られても、こいつは頭がおかしいと結論づける以外にどう反応していいのかわからないに決まっている。
あとはお願いしますね、そういってまだ可笑しそうに笑って林さんは家路へとついた。ひとり閑散とした食堂の厨房に取り残された私は河童の彼をただ待ちぼうけた。構わない。私は知っているのだ。河童がいとも人間のような顔をしてお金を払って河童巻きを食べに来ているということを。
もちろん、彼の偏食のみで彼を河童だと決めつけたわけではない理由はあった。
初めて彼を見たのは真夏の焦げ付くような日、市役所の近くの沼だった。東京の会社を辞めて実家に帰ってきてまもないころだった。何も変わっていない町を久しぶりに新鮮な心持ちでふらふらと歩き回っていた。その沼は立ち入り禁止区域で申し訳程度に柵が巡らされている。小さかったときからボロボロの柵は今では輪をかけてボロボロで、隙間をかいくぐるのはわけなかった。私がいくらか大きくなったせいでほんの少し難しくなったと感じたくらいだ。
八月中旬という真夏日でもその場所はしん、と空気が落ち着いていることを私は小さいときから知っていた。ひんやりと冷たい地面に腰をおろしてその空気を吸った。水臭く、生々しい、じっとりとした重い匂いが鼻腔に広がった。生きている匂いだ、と子供の時から思っていた。その懐かしい感じが私の脳髄を痺れさせた。
ちゃぷんと、粘性のある水の音が届いた。魚が跳ねたのだろうか、そんなことを思いながら私はなんとなく視線をそちらに向けた。ひんやりしているとはいえ、強すぎる日差しで頭がどうかしてしまったのかと思った。
人間の頭が半分、沼の水面から突き出ていた。
悲鳴が喉元まで出かかった。身体中の神経が一瞬のうちに動きを止め、心臓も2秒ほど止まったと思う。
水浴びをするのには、かなり気がひける水質の沼だ。ここで水遊びをする人っ子ひとり見たことがないし、第一、立ち入り禁止の沼だ。少なくとも私はここで人の姿を一度も見たことがなかった。それが、大の大人の男性らしき人間が、鼻の穴まで浸かってじっと動かないのだ。
べったりと濡れた髪の毛が日差しを浴びてツヤツヤと光を反射し、黒々となまめかしかった。対照的に真っ白の肌は濡れたせいもあるのか、ガラスのような透明感をたたえていた。その鼻筋から上の横顔だけが淀んだ沼の平らな水面にぽっかりと違和感たっぷりに突き出ていた。おかしなものを見ているに違いないと頭では理解していた。納得のいく仮説を立てようと、頭の中はバタバタと音をたてて騒々しかったがそこに座っている私は石のように動けなかった。ただその横顔をじっと見つめていた。視神経が自由を奪われて、瞬きもできないでいた。日差しが瞳を焼く。
変質者。一番有力な考えが頭に浮かぶ。立ち去るべきだ。一刻も早く。気づかれる前に。動け。あたまが命ずる。身体は頑として動かない。その場で釘付けになっていた。
頭が半分出たその人は私の存在に気づいているのかいないのか、それとも興味がないのかこちらにちらとも目を向けなかった。そしてそのままつつっと水面を流れるように移動していく。ちょうどアメンボが水面を揺らすことなく移動するのに似ていた。
そしてそれは姿を現した。ぬめり、という音が聞こえるような水を掻き分けてその人は水面から出ていとも普通に地面へと足を下ろした。そして私を振り向いた。その人は緑と白の太めのボーダーのTシャツと濃い色のジーンズを身につけていた。その細い肩には黒いトートバッグを提げてさえいた。私は息をしていたんだろうか。日差しの暑さも忘れるほどに私はその姿に見入っていた。
彼は、私の視線をさらりと掴んだ。驚きもなく焦りもなく、ただ、あぁ、とでも言いたげなその目は私の見開いた目をしっかりと掴んでいた。そしてさらりと離した。まるで会釈するようにその人は頭を下げそのまま茂みに長い足を突っ込んで歩き去った。彼のあちこちから滴った沼の水でできた水たまりと沼にわずかに残る波紋は確かに彼がそこにいたことを証明していた。
日差しが頭を焼く。仕事をやめ、人に会わなくなってから染めていない、頭皮に近い暗い部分がジリジリと輪をかけて焼かれているようだった。その日私はどうやって帰ったのかよく覚えていない。その場に打ち付けられてしまったおしりをどうやって引き剝がすことができたんだろうか。あのボロボロの柵をもう一度どうやってかい潜ったんだろうか。
その夜に私はかねてから母に打診されていた市役所の食堂で一時的にでも働くことを決めた。ついに頭が変になったのだと私は確信したからなのか、髪の毛を染めるお金が欲しくなってきたからなのかは分からない。ただ私は、あの姿に忘れていた驚きという感情と現実感をなぜか引き起こしたのだった。
「河童の彼は来たのかしら?」
食器洗いをしている私に林さんは背中越しに大きな声でそう尋ねた。私はくるりと振り向き大きく頷く。そして一呼吸後に林さんの顔が少なからず笑っていることに気づき、ぎこちないながら膨れっ面をしてみせた。
「来ましたよ。」
「はいはい。」
「本当なんです。」
「疑ってなんかないわよ。」どこまでも林さんは笑顔のまま私をからかう。構わない。信じてもらえなくても。彼の存在は知られるべきではないと薄々どこかで感じ取っていた。
「まるで恋してるみたい。」
私はついに食器を落とした。つるりと私の手から滑り落ち、石材の床にそれは落ちた。ぱりんと小気味いい音とともにそれは細かく砕けた。
「あらあら。」林さんは持っていたラップをそのまま放り出し、私に動かないように言うと掃除道具入れへと小走りに向かっていった。
「すみません。」その背中に私は声を掛け、しゃがみこんだ。慎重に大きな破片を手に取る。取れるものだけ集めておこうと思ったのだ。慎重にしたつもりが鋭い痛みを指先に感じた。あっと思う間もなく痛みの先からつぅと赤い玉が膨らみ、表面張力の限界を超えると私の指に沿ってつたっていく。深い真紅の血液が白いタイル床にぽとぽと、数滴こぼれおちた。とくんとくんとまるで小さな心臓が指先に突如できたように波打っていた。その言葉にいくらか私は動揺していたんだろうか。ステンレスに映る私を見つめる。そこには何も見えなかった。淀んだ目も、生きている目も見えなかった。ただ歪んだステンレスにぼんやりと映る私のシルエットが揺れていた。
絆創膏を貼ってもらった指先を私は見るともなしに見つめていた。
「帰りますね、洗い物は今日はもうしなくて構わないから。もし洗うものがあれば明日の朝に置いておいて。」そう言って帰ってしまった林さんは私がするべきだった事までほとんど片付けてしまった。あとは4時までここにいるだけだ。食堂は閑散としていた。職員たちが上階で立ち回り働く音が時折かすかに聞こえる程度で他には何も聞こえなかった。ちらりと時計を見やる。窓から入ってくる日差しは随分低い位置から差し込んでいた。
あと10分で午後4時だった。彼は来なかった。ラップをかけたかっぱ巻き2本を私は横目で見遣った。それらはひどく貧相に見えた。食べてくれる人がいないかっぱ巻きはただただ貧相だった。
私は市役所を出た。手にはラップと麻のさらしで包んだかっぱ巻きを持っていた。まだ暑いと言える日差しは、確かに角の取れたものになっていて頬に当たる空気はただじんわりと染み入るような温度になっていた。私の足は沼へと向かっていた。そこに居るはずだと根拠のない自信があった。錆びついて腐った柵の隙間をかいくぐる。歩を進めると空気に水分がどんどん含まれていくのを感じる。水の匂い。生きている匂い。懐かしく、怖いような皮膚に染み入る匂い。やがて沼は私の目の前に現れた。木から舞い落ちた葉が着水しても、夕方のしなびた風が吹きぬけようと、しんと動かない水面が私の目の前に広がった。
そこには何もいなかった。河童のその人はいなかった。ただなぜか複数人の足跡がそこら中にあった。誰かが来たらしい。そうしてのめり込むような地面を歩きながらいくらか見渡しても河童の彼はいなかった。ずきんと、切った指先が痛むのを感じた。見ると絆創膏を通して麻のさらしにほんの少しだけ血がにじんでいた。風が吹く。帰れ、と沼に言われているような気がして私は踵を返した。背中を撫で押すような晩夏の生々しい風だけがそこにいた。ここで今までに感じたことのなかった違和感がぞくりと背筋を震わせた。
「河童巻きを。」
その手には100円玉が4枚乗っていた。
「2本で200円です。」
彼はその手を引っ込めないまま私の目を真っ直ぐ見つめて言った。
「昨日の分と今日の分です。」
「あ。」
「わざわざありがとうございました。」
彼は河童だ。河童なのだ。あの沼にいたのだ。林さんに言わなければ。これこそが証拠だ。私のまだ癒えていない指先の中で心臓がドクンと大きく跳ねる。
「昨日は少し予定が変わって来れなくなって。おかげで助かりました。」
私は何も言えなくなっていた。彼は何も言えないでただ河童巻きを差し出した私に軽く会釈をした。沼で見たあれと同じ、いつも去り際に見せるそれと同じ、私がなぜか惹かれてやまないその会釈だった。
去ってしまう。私の心は叫んでいた。
「また来てください。」
踵を返した河童のの背中に私は少し大きな声で伝えていた。それは確実に私の心にあふれ、私の喉を震わせ、唇に乗り、
空気を震わし、彼の背中に届いた。
彼は振り向いた。見たことのないほどの透明感を湛えたその瞳を私はそらさずに耐えた。
「はい。ありがとうございます。」
あぁ、と思った。会いたいと、思った。また何度でも。私は耐えられなくなり頭を下げると忙しそうに振る舞った。染みだらけの割烹着が滲んで見えた。顔をあげる。彼はもう居なかった。また来てくれる。来なくても私が届けられる。
勘定台には何かが置かれていた。一枚の薄い紙に見えた。
それはかすかに湿ったような絆創膏だった。
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