雨空にサヨナラ

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 君は、幸せだったのだろうか……――。  夏前の梅雨に差し掛かる頃。僕は最愛の恋人、汐(しお)を失った。ちょっとした不注意が重なった、不幸な事故だった。  小さな子供が猫を見つけて道路に飛び出し。タイミングよく差し迫ってくるトラック。事故まで数秒。母親の絶望した叫び声が響いたその時。僕と彼女はその場に居合わせていた。  そして僕は……動けなかった。状況の認識ですら不十分だっただろう。本当に最悪だ。気付けば僕の左手を握っていたはずの彼女が、トラックの前に飛び出して子供を突き飛ばしていた。 「汐!?」  空回るほどに煩い急ブレーキの音。小さな子供がすれっすれに母親の元へ飛ばされ、ゆっくり、確実に彼女へ触れ行く大型のトラック。運転手の焦った顔ですら、スローモーションのように過ぎていった。僕には何も……できなかった。  顔に飛び散る赤。視界一杯に映った混沌。泣き叫ぶ声。パニックながらも通報している大人。おかしい、おかしい。 「…………な、んで」  何故君がそこにいるんだ。さっきまで僕の隣を歩いていた君が、さっきまで華のように可愛らしい笑顔を見せてくれていた君が。  どうしてアスファルトの上で、赤色に染まったまま動かないんだ――。  音、光、香り、色。目に映る物全てがモノクロになってから、気付けばもう、四十九日が経とうとしていた。  結局あの後汐は、一度病院に搬送されたが……即死だった。トラックのあの勢いに飛ばされて、無傷でなんていられるわけがない。受け止めたくない。狂いそうだった。  幸いなことに彼女が助けた子供は、軽傷こそ負ったものの、命に別状はなかったという。後からその子の両親が泣きながら汐へと会いにきた。少しだけ、苦しさが増した。  何度後悔したことだろう。もしあの時あの場に居合わせなかったら……汐は死ぬことなんてなかった。だがあの場に居合わせなかったら、子供は――。  考え出したらキリがない。二人を救うなんて、奇跡でも起きない限り絶対無理な状況だったのだ。だからこそ、何故僕は咄嗟に動けなかったんだ、と何度も自分を責める。そんな日々が続いた。  鬱になり、病院へ通い、それでも汐を失った痛みは消えることなく留まる。寧ろ彼女を置いて無情にも進む時が、彼女への想いを更に加速させた。とても、耐えていられなかった。  迎えた四十九日の前日。すっかり限界に達していた僕は、あることを目的に外へ続く玄関を抜け出した。儚げな日差しの降り注ぐ、穏やかな平日のお昼過ぎ。  右手にはコンビニのビニール袋。ヨレヨレのジーンズに、白無地のシャツ。全くセットしていない髪は、ぼさぼさなままだ。元々猫背だが、最近は余計に酷くなってしまったし、傍目から見ればかなり危ない男に見えていることだろう。  だがそんなことはどうでもいい。ふらつく足を必死に前に動かして、とある場所へ向かっていた。とても大切な、最後の思い出の場所。美しい緑が輝く大きな公園だった。  ふと、目線の先に大きな樹木が一本。その根元には洒落たベンチが設置されているのが見えてきた。瞬間頭にふっと汐の笑顔が浮かぶ。 『ここ、水族館とかあるらしいよ』  自分の声だ。それに飛び跳ねるような仕草で反応する汐。艶のある黒髪が肩の上で泳いでいるかのように揺らぐ。可愛らしい彼女が振り返った。 『ほんと? 行ってみたい!』  高すぎず低すぎない丁度良いソプラノ寄りのアルトが、僕の周りを踊るかのようにグルグルと回った。無意識のうちに頬が緩んでしまう。 『よし、行くか』  僕がそう言えば、君は太陽のように明るく笑って嬉しそうに笑ったんだ。 『楽しみ~!』  事故の日の会話が、蘇って僕の身体を侵していく。熱に浮かされたような心地で、気付けば彼女と会話したそのベンチへと足が勝手に歩みを進めていた。  同時に、溶けそうなほど小さな雫が視界を縦に横切った。いつの間にやら曇った空から、ゆっくりと地面へと落っこちてきては、吸い込まれるように消え、シミを作る。  傘なんて持ってきてない僕は当然濡れ出して、ベンチに辿り着くころには、すっかり服が斑模様になっていた。 「こんな時に雨か……」  まるで空も泣いているかのようだ。それはそれで人気がなくなっていい。そっとベンチに腰を下ろして、ビニール袋を右隣へ置いた。  ふと、ベンチから見える景色へ視線を移す。音もなく、さっきまで輝いていた緑に潤いをもたらすべく雨が降り注ぐ。優し気な灰色が世界を覆っていた。  綺麗だ、と思う。反面、こんな光景ですら、もう汐と見ることが出来ないのか。途端に腹の底から何かがこみ上げてくる。 「うっ……うう…………」  悔しいのか、悲しいのか。辛いのか……怒っているのか。自分で自分がわからない。 「なあ、答えてくれ、汐。君は何であの時、トラックの前に――……」  亡くなった相手に、馬鹿らしいかもしれない。それでも聞かずにはいられなかった。僕が居たのに。何故子供を助けられたのか。直接聞いて納得したかった。 「――だって、子どもは放っておけないよ」  コン。  狐の鳴き声と共に、突然周囲の音が消えた。流れ出していた涙が、ふっと止まるのを待って、僕は声の方へ頭を動かそうとした。が、出来ない。 「え」  金縛りにあったかのように身体がびくともしない。声は隣から聞こえてきているというのに、見ることが出来ない。 「――ごめんね、このままで……許してね」  すっと入り込んでくるような優しくて、儚い声。なんて懐かしい声だろう。 「……汐、なのか?」  信じられない思いで聞き返す。まるで夢のようだ。体中の感覚が麻痺しているみたいに、はっきりしない。まどろみの中を手探りで四つん這いになって歩いている気分だった。 「――そうだよ」  それでも彼女の声は、ここに存在していることを示している。ちゃんとこの目で彼女の死を目の当たりにしたというのに。 「そんな……あり得、ない」  思わず口をついて否定の言葉が飛び出した。瞬間、言葉に詰まったように黙り込む声の主。畳みかけるように僕は言った。 「僕は君の死を、この目で見ていたんだ」  コン。  空気がガラスのように危うい。何か間違えてしまったら、汐の振りをする何者かの怒りに触れてしまいそうな気がした。  だが、声の主は諦めたように悲し気な笑い声をあげた。 「――そうだよね、仕方ないか」  訴えかけるような言い方に、良心がズキン、と痛んだ。そのまま何も言わずに彼女の次の言葉を待てば、少しだけ和らいだ空気に溶けるように話し出した。 「――あのね、私お狐様に拾われたの」  突然意味の分からないことを言い出した。お狐様に拾われた? 一体何の話だというのだろう。……だが、生前汐は、時折似たような不思議なことを言っていた。 『聞いて聞いて! 夢の中でね、お狐様に会ったの!』 『はあ? お狐様?』 『そう! 女性の姿してたんだけど、私の綺麗な魂が欲しいって』 『なんか妬けるな』 『もー別に女性ならいいじゃん!』  笑い声。懐かしいな。そんな夢の話をした。たまにそのお狐様に出会ったとか、どんな話をしたとか、報告を聞かされて、ちょっとだけ妬いて……。 「――覚えてる? あの夢の話。そのお狐様が拾ってくれて、」  隣で彼女が微笑んだように、周りの空気が揺らいだ。 「――化け狐になったんだ」  コン。  ひゅっと肺の中の空気が抜けていく。恐怖に近いだろうか。そんなことが科学の進歩したこの世の中で起きていいのだろうか。僕には判断できなかった。  何より僕の最愛の人の声で、彼女の過去をも持ち出して嬉しそうに報告してくるのが、生前の彼女を思い出させる。  気付けば、隣にいる声の主は、本当に彼女なのではないか、と思い始めている自分。 「それは、君にとってよかったこと……なのか?」  僕の口が勝手に彼女を心配する言葉を放つ。少しだけ間を置いて、彼女は言った。 「――心配、してくれるんだ」  僕の問いには答えずに笑う。むしろそれが答えだったのかもしれない。今すぐにでも彼女の方を向いて抱きしめたい気持ちに駆られながら、どうにか「うん」と返事した。 「――相変わらず優しいね」  彼女がふんわりとした空気を纏ったように感じた。そう、それはまるで、生前一緒にデートしていたときに感じた、安心感だった。  どれくらいそうしていたかわからない。数分だったかもしれないし、もう少し長かったかもしれない。僕と汐は、顔を合わせることはなかったが、思い出話に花を咲かせていた。それも、今丁度ゆっくりと幕を下ろそうとしていたが。  この公園に入ってきた頃振りだしていた雨は、一時その勢いを強くしていたものだが、それもすっかり落ち着いていた。そろそろ雨も止みそうだった。 「なあ、汐。ずっと……聞きたかったことがあるんだ」  なんとなく途切れた会話をきっかけに、前を向いたまま口を開いた。 「――何?」  少しだけ弱々しく感じられる聞き返し。一瞬だけ胸の内に広がった不安を消し去るように、思い切って聞きたかった言葉を口にする。 「君は、幸せだったか?」  ドクン、ドクン、と自分の心臓がいつもより早く脈打つ。一泊置いて、彼女は言った。 「――ねえ、『涙雨』って知ってる?」  質問には答えず、質問返し。その聞いたことがない名前の雨だ。よくわからないまま、首を傾げる。 「『涙雨』?」 「――涙のようにほんの少しだけ降る雨のこと。丁度、今みたいな」  と言った。悲しそうな吐息だった。 ゆったりとした動きで、だが着実に止みつつある雨空。遠くの方にはすでに、雲の間から日差しが差し込んでいるのが見える。 「――虹くん」  見ることのできない彼女が、僕の名前を呼んだ。耳元でそっと優し気に、ちょっぴり照れ臭そうに、でも微笑むように。 「――最っ高に幸せだったよ!」  声が、ふっと自分の中に溶け込んだ。同時にベールが剥ぎ取られたように輝く、真っ青な美しい空。雨に濡れて正規に満ち溢れている緑。  気付けば金縛りは解かれていた。だがそれではもう遅い。 わかっていたんだ。僕は……ちゃんと彼女が汐であることも。彼女との会話がこれで本当に最後になることも。彼女が僕を心配して現れてくれたことも。全部全部、わかっていた。  ふと、さっきまで汐の気配を感じていた隣に視線をやった。当然そこには誰もいない。しかし何故だろう。そこに置いていたはずのビニール袋がなくなっていた。自殺するための縄が入っていたものだ。 「やられたな……。君には本当に敵いっこない」  口角が勝手に上がった。そこで初めて自分の頬を、ほんのり熱を帯びた雫が伝っていることに気付いた。  おかしいな、もう雨は止んだというのに。  コーン……――、と遠くで鳴いているのだろう。狐の小さな声が薄っすらと鼓膜を震わせた。  どこまでも続く青い空。さっきまであんなにも流していた涙は、地に根を張る者たちの糧となって、役目を終えたかのように消え去っていた。
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