のどかの瞳

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のどかの瞳

 のどかの瞳には、化物が映る。 「お兄ちゃん。のどかね、今日もちゃんと勉強しててね、ここまで進んだんだけどね」  言葉を区切るのは、のどかの癖だった。目の上で切りそろえた前髪が、絵にかいたような大きな二重の目を際立たせている。  (きょう)と同じく生まれも育ちも関西でありながら、家族のなかで、のどかだけは好んで標準語を使っていた。  火曜日の五時半を少し回ったのどかの部屋で、夕焼けがカーテンの隙間から眩しさを主張している。のどかと似た真っ黒の髪をかき混ぜ、梗は目を細めた。  バイト先の進学塾で制服代わりにしているスーツのジャケットを脱ぎながら、のどかの指したノートを覗き込む。 「え、めっちゃ進んでるやん。のどか、流石やなー」 「のどかは小学校のときもね、学校の先生に頭もいいし運動もできますねって言われてたでしょ。のどかはあれね、大げさだなって思ってたんだけどね」  袖口を握って口元に当て、大きな黒い瞳を数回瞬かせる仕草を、梗は兄ながら可愛らしいと評価していた。入学したばかりのときは、中学の制服姿でもよく同じ仕草を見せてくれていたのに、最近ののどかはもう薄桃色のパジャマから着替えようともしなかった。  入学してからまだ一ヶ月で、のどかは中学に行っていない。 「あと想像力も豊かです、って言われたこともあってね」 「そうやんな」  言い始めると満足するまで止まらないのどかの話も、梗は苦ではなかった。口を挟むような真似もせず、ひたすら相槌を打つ。  ふと、のどかは顔を曇らせる。声を潜め、梗のシャツに手を伸ばした。 「お兄ちゃん、さっきもね、のどか、お化けを見たの」  のどかは中学に行かなくなってから、お化けが見えると言い出すようになった。  頻度は日ごとに増していく。 「のどか。お化けって、その、どんなんか説明できるか」  梗は意を決してのどかを見つめる。  今まで、怖がるのどかに詳しい説明を求めたことはなかった。それどころか、学校に行けない理由すらたずねたことはない。のどかを不安にさせる話をわざわざする必要はないという持論を信じ切っていた。 「俺ものどかにしんどい話させたくないんやけど、最近よく見るみたいやから心配で」  近頃は、あまりに回数が多かった。部屋でのどかは震え、梗に異形のものの存在を訴える。 「お魚に、似てる」 「魚?」  てっきり幽霊だと思っていた梗は、予想と異なる答えに眉を寄せた。 「身体に黒いウロコがいっぱいついててね、それってお魚みたいでしょ。お母さんとかお父さんくらい大きくてね、あと……目だけがすごく膨らんでるの」  具体的に似ている魚の名前は出さず、特徴だけをのどかはか細い声で教えてくれた。 「そんな大きい魚見えたら、怖いよな」  余計なことは言わずに、ただ彼女を労わるように頭を撫でると、のどかは梗の胸元に飛び込んでくる。シャツに顔を押し付け、涙をこらえるように鼻を啜った。 「あのとき、お母さんじゃなくて、お兄ちゃんが一緒にいてくれたら良かったのに。お兄ちゃんなら、こうやって守ってくれたのに」 「ちょっと待ってや、じゃあのどかがその化物見たときに母さんは一緒におったんか」 「お化け見るまではね、色々お話してたんだけどね、お化け出てきたらどこか行っちゃって」  守ってほしかったのに、とくぐもった声で呟くのどかに、梗は腕に力が入った。 「今度から俺のこと呼びや、のどか。見えんように守ったるから」 「ほんと」 「今まで俺がのどかに嘘ついたことあるかー?」  明るくおどけてみせると、のどかは顔を上げて小さく笑い、首を振った。 「ううん、ない」 「やろ」  のどかから手を離し、軽く時計を見やった。六時近く、夕食の準備ができている時間だった。 「のどか、飯一緒に食べよっか。持ってきたるわ」 「ありがと、お兄ちゃん」 「ちょっと待っててや」  のどかには笑顔を向けて、軽く手を振って彼女の部屋を出ていく。
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