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老紳士の来訪
日曜の朝、七重が生きていたころからそうしていたように、美織は朝からきちんとご飯を炊き、汁物を作ってゆったりとした朝を過ごしている。
汁物を椀に入れ、卵焼き、鮭の塩焼きを前に置くと、小さいお茶碗に炊きたてご飯をよそった。
そして、仏壇に同じものを御供えしてから朝御飯を食べ始める。
これはここ半年、特に誰とも出かける予定のなかった美織のライフワーク。
この生活に何の不満もない。
祖母との思い出の中に漂いながら流れるこの時間は、美織とってかけがえのない幸せな時間だったから。
今日は、伸びすぎた庭木の剪定をし、一週間分の買い物をして、それから保存用に調理しなければ。
案外忙しい美織の一日は、いつもこのようにして過ぎて行くのだった。
スーパーの開店時間に合わせて、身支度を整え、急いで玄関に出ると、台所に置いてあるエコバックを忘れたのに気が付いて取りに戻る。
そういうことがないように、玄関に置こうといつも思っているのだが、それすらも忘れてしまうという自分自身に呆れて一人で笑ってしまった。
『仕事は完璧だけど、こういうところは抜けているのね』
と七重にもよく言われていたな、と美織は廊下から仏壇を見る。
七重は変わらず微笑んで美織を見ていた。
ーーピンポーン
古くさいインターフォンが響き、美織は珍しく来客が来たのに気付いた。
新聞の勧誘?保険の勧誘?それとも、宗教?
だが、そういったものはあまり日曜日には来ないものだ。
美織は廊下から直接見える玄関に写った影を確認する。
昔ながらの玄関はガラスに木を張ったもので出来ており、外の人物をある程度目視することが出来た。
背の高い、黒い服の、男?
礼服だろうか、葬式に行くような出で立ちの男が立っていた。
七重の死からは半年が立っている。
当時は休みに入る度に、弔問客があったものだが、半年も経つとそれも徐々になくなってくる。
その為、こんなに経ってからの弔問が少し不思議に思えた。
ーーピンポーン……
どうやら、家を間違えた、とか訪問販売とかではないらしい。
ガラス向こうの男は身じろぎもせず、ここに家人がいるのを知っているかのように自信たっぷりに立っている。
美織はこの客が弔問に来たのだと何の根拠もなく思った。
「どちら様ですか?」
美織は家の中から声をかける。
「黒田行政といいます。加藤七重さんのお宅ですね」
ガラスを隔てた男の声は、低く丁寧で落ち着いていた。
「七重は祖母です。半年前に亡くなりましたが……」
「……はい。知っています。本日は遅くなりましたが、御線香をあげに……」
「どうぞ」
美織は直ぐに玄関を開け、来客を確認した。
男は七重と同じくらいの年で、ガッチリした体格に背もスッと伸び、意志の強そうな眉が印象的な上品そうな男だった。
「ありがとう。君は七重さんのお孫さんだね。あ、もしかして外出する予定が?」
「はい美織と言います。ああ、お気になさらず。急ぐことでもないので……さぁ、どうぞ御上がりになって下さい」
「申し訳ない。では御線香をあげさせてもらいます」
黒田と名乗った男を仏間に案内し、美織はお茶を入れに台所に向かう。
台所から廊下を挟んだ仏間にいる男を注意深く見つめていた美織は、その挙動に息を飲んだ。
彼は遺影にそっと手を伸ばし、ほんの少し嗚咽を漏らしたのだ。
今までそんな客を見たことがなかった美織はびっくりして手を止めた。
黒田行政という男は、七重とどんな関係にあったのだろう。
そんないろんな想像が美織の頭を埋め尽くしていった。
行政は暫くして、しっかりと前を向くと線香をあげ両手をゆっくりと合わせる。
それと同時に止まっていた美織の手も動き、少し飲み頃を逃した苦味のあるお茶がお湯のみに注がれることになった。
「黒田さん。本日は祖母のためにありがとうございます」
美織は正座しお茶を脇に置くと、深々と頭を下げた。
それに反応するように行政も同じように頭を下げる。
「お礼なんて……本当はもう少し早く……いえ、生きているうちに会いたかったんです。それは叶いませんでしたが……この手紙を私が見たのはつい一週間前のことで」
「手紙?」
お茶を勧めながら、美織が言った。
「はい。実は半年前には届いていたものを、家の者が失念し私に届け忘れていたのです……これです」
「これは、祖母の筆跡ですね……」
懐かしい文字に美織の心は踊った。
「なんと書かれていたのかお伺いしても?」
「どうぞ、御覧になって下さい」
行政の言葉に、美織は直ぐ様飛び付いて手紙を開いた。
そこには、暖かい七重の字、七重の筆跡で美織のことを頼むと何度も何度も念を押して書かれている。
恐らく、死期を察して筆を取り、美織にバレないように看護師さんに頼んだのだろう。
心配させない為に、そして、美織の為に……。
「……ありがとうございます。祖母が私のことを気にかけてくれていたのを知れて良かった」
「七重さんは本当に美織さんのことを大切にされていたようだ」
微笑む行政にそう言われ、美織は少し照れ臭そうに笑った。
「だから私も……美織さん、貴女の幸せに協力させてもらいたい」
「そんな……黒田さん、ご心配には及びません。私は十分幸せです」
「そうかもしれませんが……あの、よければ一度、うちの孫と会ってみませんか?」
「……はぁ?」
何がどうなってこうなったのか全くわからず、美織は失礼も省みず行政に問いかけた。
「……ああ、突然過ぎましたね。実は私、小さい造船会社を営んでおりまして、ゆくゆくは孫に会社を譲ろうと思っています。そこで、美織さんに孫の隆政の嫁になって貰おうかと……」
「……申し訳ありませんが、お断りします」
「即答ですね……身内が言うのもなんですが、隆政は結構な男前で今年で27……」
「いえ、そういうことではありません」
取りつく島もない美織の様子に、暫しの沈黙の後、これでどうだ!と言わんばかりに行政が言った。
「私も七重さんとの約束があります。美織さんの幸せを託されたんです!七重さんの為に、どうか一度だけでも隆政と会ってくれませんか?あいつも楽しみにしているんです!」
いや、それは大嘘だろう。
と、美織は思った。
かなりの男前の金持ちが、後ろ楯も何もない、地味な女に会いたいとは思うまい。
しかも、27歳のそんな優良物件が女の一人もいないわけがない。
ーーだが。
美織は七重が行政に宛てた手紙を見ている。
手紙には七重がどれほど行政を信頼しているかがわかる、そんな内容だったのだ。
そして、行政も……美織にそんな大嘘を吐くくらい七重のことを想っていたのではないだろうか。
そんなに七重のことを想ってくれている人の話を無下には出来ないし、七重の自分を想う心にも答えたい。
悩んだ美織は行政に言った。
「……では、一度だけお会いするということで」
まぁ、一応会えば顔は立つしその場で断ってもいいか、とその時の美織は楽観的に考えていたのだった。
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