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黒田隆政の実情
その日、黒田隆政は結婚するつもりだった女に別れを告げた。
商工会のパーティーで知り合った女だったか?
いや、何かの打ち上げだったか?
興味がないためか、その辺の記憶ははっきりしない。
言い寄ってくる女など山のようにいるし、その中で一応は容姿や家柄で相手を選ぶが、誰に対しても興味は持てなかった。
たった今別れを告げた女だってそうだ。
確かどこかの不動産会社の令嬢だったと思う。
あまりにしつこく言い寄られて隆政が根負けした感じだが、見た目も悪くないし連れて歩くにはちょうどいい。
ただそう思っていただけだった。
『そろそろ身を固めて跡を継げ』と、社長である祖父行政には前々から言われていた。
隆政は結婚というものに全く興味はなかったが、ある程度取引先から信用を得るためにはそれもやむを得ない。
だから、特に好きでもなかった見映えの良いだけの派手な女と、一緒になってもいいような気もしていた。
そう、ただ、面倒臭かったのだ。
昔からそういうものは勝手に寄ってきたし、うるさく言われれば別れたらいい。
そんなことを繰り返しているうちに、隆政は誰に対しても心が動かなくなっていた。
愛したってどうせいなくなる。
そんなことは両親の事故の時、十分すぎるほどわかっていた。
3日前、漸く身を固めることを決めたと祖父に言うために隆政は本宅を訪ねた。
だが、そこで見たのは言い争う祖母と祖父の姿。
扉の影で聞いていると、七重という女の名前が頻繁に出てくる。
行政の愛人か?と考えて聞き耳をたてていると不意に扉が開き、盗み聞きがばれてしまった。
「隆政。何してる?」
聞いたこともない行政の怒りに満ちた声が聞こえた。
「ああ、あの、少し話が……」
「後にしなさい……ああ、それからお前が今付き合っている女、藤堂に調べさせたら、ろくなもんじゃなかったぞ。すぐに別れろ」
「は??いや……」
藤堂というのは黒田造船の顧問弁護士で、行政の信頼が最も厚い者だ。
その藤堂の進言ならこれは決定事項なのだろう。
その事について別に文句はなかった。
暗に結婚しなくていいと言われたようなものだ、内心ラッキーだとも思っていた。
だが、隆政はイラついている。
それは行政の頭ごなしの言い方に正直腹が立ったからだ。
行政は普段こんな言い方をする人間ではなかった。
冷静で温厚、人当たりの良い性格で、声を荒らげたりするところなど見たことはない。
隆政は怒りを露にする行政の目の前で、能面のように冷たい顔の祖母小夏を見た。
こちらも、普段は行政の3歩後ろを付いて歩くような奥ゆかしい女なのだがこの日は様子が違っていた。
「隆政さん。今取り込んでるの、出直していらっしゃい」
と、小夏は努めて冷静に言った。
「……そうですね、そうしますよ」
何だか知らないが巻き込まれては堪らない。
隆政はさっさとその場を去ろうとした。
「待て」
「は?……何か?」
行政は背中を向けたまま、隆政を呼び止めた。
「お前には見合いをしてもらう」
「見合い!?何でまた……」
女と別れろと言ってきたと思えば、今度は見合い。
どう考えても冷静でない行政の言動に、隆政は呆れ返った。
だが「どうしてだ?」と問う気にもならなかった。
わざわざ火に油を注ぐ必要もない。
何度も言うが、隆政は面倒事が嫌なのだ。
「別に構いませんが?」
「そうか、日にちは後で調整する。それまでに、前の女はきっちりと精算しておけ。言っておくが、見合いが失敗した場合、お前は社長になれんからな」
「……どういう……意味ですか?」
行政は真正面から隆政を見た。
「見合い相手の美織さんをお前が幸せに出来ないのなら、社長は譲れないということだ」
「え、と。つまり、その人と結婚出来なければ俺は社長になれないと……」
「そうだ、良く覚えておけ」
(なんだそれは……爺さんはまるで、その美織とか言う女に全ての財産を渡したいみたいじゃないか。まさか、隠し子……いや、孫……?)
隆政は行政の様子を細かく観察した。
ここに来た時よりは随分冷静になっている。
とち狂った訳でもなさそうだ。
それは、目の前で未だ能面のような小夏の様子からも理解できる。
行政がおかしくなったのなら、小夏が止めに入るはず。
それをしないのは小夏も渋々ながら了承しているということだ。
「わかりました。また、連絡してください」
隆政はそう言って部屋を去った。
本宅の玄関から駐車場までの庭をぬけながら、老夫婦の喧嘩の原因を考えてみた。
『七重』『美織』この2つのキーワードが関係していることに間違いはないだろう。
行政の愛人か。またはその子か孫。
そうだとしても、隆政は見合いをして『美織』という人と結婚する。
これも決定事項なのだ。
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