黒田隆政の熱情

1/1
前へ
/80ページ
次へ

黒田隆政の熱情

落ち着いてから謝罪をしたのでは間に合わない。 そんなに悠長に構えている暇はどうやらなさそうだ。 成政の出張はあと2週間程の予定だが、いつ前倒しされて帰ってくるかわからない。 それまでに彼女に会って謝罪して、そして……。 そして? ……どうすればいいのだろう。 恋愛の順序など全く知らない。 そんなものは相手がいくらでも提示してきて、自分はそれにイエスかノーで答えるだけだったのだ。 隆政は頭を抱えた。 今度は自分が提示する側に回る。 しかも、明らかにマイナスからの状態での駆け引きだ。 自信など微塵もない。 だがこれはやらないわけにはいかないのだ。 そう隆政の中の何かが告げていた。 次の日、午前中から続いた会議の後、隆政は美織の職場へ向かった。 見合いの時に渡された簡単な釣書には、勤務先「市役所住民課」と書かれていた。 その情報を頼りに本館の一階へと足を運んだ。 月曜日ということもあって、住民課は午後だというのに人が多い。 窓口には4人受付がいてその中に美織がいた。 彼女はとてもいい笑顔で応対している。 それは人に安心感を与える笑顔だった。 (爺さんが言っていたな……あの穏やかな人を……と。本当にその通りだ。そんな人を怒らせるなんて……) そしてグッと拳を握り込み、一番窓口へと歩を進めた。 窓口から前の人が去るのを見て、隆政は美織の前の椅子に座った。 (冷静に対処しなければ、今度こそ彼女を怒らさないように) 美織は手元の何かを操作しようとしたところだったが、ふと顔を上げた。 前触れもなく座った者に驚いたのか、掛けていたメガネが思いきりずれている。 「こんにちは。少し構わないか?」 明るく。笑顔で。爽やかに。 小学校の校訓のような言葉を繰り返し頭の中で唱えながら言った。 美織はゴキブリを見たような顔をした。 少なからずショックではあったが、それは自分のせいだ。 と、気持ちを切り替える。 「……番号札はお持ちですか?」 ずれたメガネを直しながら美織が言った。 (番号札??) 隆政は市役所の住民課に来たことはなかった。 戸籍を取りに来ることも、住民票を取りに来ることも、当然ながら婚姻届を出しに来ることもなかった。 その為、そのシステムが全くわからなかったのだ。 「そこの機械で発券して、ここの窓口で用件を伺います」 「用件というか……話があるんたが」 「番号札をお取り下さい」 ……一蹴された。 隆政が思うよりもずっと美織は腹を立てている。 そう思い、素直にその言葉に従うことにした。 番号札を取り待つ間に3つほど案件を片付ける。 合間合間で美織を盗み見ては、楽しそうに応対し笑いかける彼女に釘付けになった。 そして笑いかけられた相手に激しく嫉妬した。 そうこうするうちに番号が掲示板に表示された。 だが……。 案内された窓口は1番窓口ではなかった。 3番窓口の年若い男が、不思議そうな顔で隆政を見ている。 これは彼女の策略か? そう思って1番窓口を見るが、美織は少しも隆政を見ておらず、3番窓口の男だけが訝しげに見つめていた。 (埒が開かない!!とりあえず座って何か彼女の情報を得よう) そう思い仕方なく3番窓口に座った。 だが男に聞けば聞くほど自分が不審がられていくのがわかる。 (きっと、ストーカーだと思われてるぞ……まぁ、実際そうかもしれないが……とにかく警備員を呼ばれる前に退散しなくては) と早々に話を切り上げてその場を立ち去ることにした。 だが不審がられた甲斐あって必要な情報は得られた。 (もう少し……嫌がられても食い下がってみよう。やっと、興味が持てる人に出会えたんだ。この機会を逃したくない。もっとこの先を知りたい) 隆政は美織を待伏せすることにした。 彼女が怒っているのは十分知っているが、そうでもしなければ会ってはもらえない。 八方塞がりの隆政にはもうそれしか残されていなかった。 定時になるまで市役所の駐車場で時間を潰すと頃合いを見て裏口に回る。 職員が裏口を使うことはなんとなくわかっていた。 普通の企業とは違うのだ、市民が使う表玄関からはあまり出入りしないだろうと予想したからだ。 17時半を過ぎた頃、ベージュのコートに濃いブラウンのストールを巻いた美織が裏口から出てくる。 それを確認して隆政はゆっくりと距離を詰めた。 その姿を他の人が見ていれば不審者として通報されたかもしれない。 それほどに隆政は必死だった。 意を決して声をかけると、美織は一度立ち止まり暫く動かなかった。 完全に不審者扱いされたのか、それとも、隆政だと知って振り向くのを躊躇ったのか? どちらかはわからなかった。 だが程なくゆっくりと振り返り、やはり心から嫌そうな顔をした。 「……何か御用ですか?」 冷たい声に少し心が折れかけた。 だが、そんなことで負けられない。 隆政は話を続けた。 「……まぁいい。ここじゃなんだから、何処かで話そう」 「待って下さい。何の話をするんです?昨日全て終わっていると思いますが」 「終わってない。昨日は……その……俺も先走ったというか……」 ここで、意外にも美織は表情を緩めた。 隆政はその一瞬の美織の表情を見て、何故か恥ずかしくなり目を伏せた。 「……では、そこの喫茶店でどうですか?」 続いて予期しなかった言葉を聞き、隆政は舞い上がった。 (彼女が話を聞いてくれる!!この機会は絶対に逃せない!!) 「ああ、そこで構わない。すまないな……」 どうして彼女が態度を軟化させたのかはわからない。 だが隆政はこのチャンスに賭けた。 そして執拗に食い下がり、やっとの思いで美織の連絡先を手に入れることに成功した。
/80ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4059人が本棚に入れています
本棚に追加