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諦めない男
ジャズのかかるその喫茶店は、外の喧騒が嘘のように静かに二人を迎え入れた。
美織は職場近くのこの場所で、コーヒーを飲んで帰宅することが多い。
主に読書をしたいとき、静かに考え事をしたいとき等だ。
そんな逃げ場所のような所に、隆政を入れてしまったことに美織は少し後悔をしていた。
「いらっしゃいませ」
初老の粋なマスターが美織を見て目を細めた。
「どうも。今日は二人だから向こうに座るわね」
「ああ、うん。好きなとこに座って。コーヒーでいい?」
「私はコーヒー……あ、あなたは?」
隆政はキョロキョロと辺りを見回しながら、慌てて美織に言う。
「同じもので……」
「かしこまりました」
マスターはチラッと隆政を見ながら、美織に微笑むと、二人分の豆を挽き始める。
ガーッとコーヒーミルの音が鳴るなか、美織と隆政は店の一番奥の席に向かい合って座った。
話がある方が先に切り出すんじゃないのだろうか?
そう思ってずっと見ていた美織は、いつまでたっても口火を切らない隆政にイライラして尋ねた。
「それで、お話とは何でしょうか?」
多少言葉に棘がある言い方になったが、嫌われてもいい、いや、逆に嫌われたい男だったので全く気にならない。
「……ええと……昨日の件についてなんだが……」
「はい」
「確認したいんだが、君は……みおは俺が嫌いか?結婚したくないのか?」
(また何を言い出すんだか……)
「昨日言った通りですが」
「……教えてくれ!……どこが、悪いんだろう……俺のどこが嫌いなんだ?!言ってくれ!!」
「どこがって……それは……」
(はっきり言ってもいいのかな?見た目は打たれ強そうだけど、案外傷付き易かったらどうしよう)
隆政は真剣な目で美織を見つめている。
暫く悩んだ美織は思っていることをそのまま伝えることにした。
「自分本意、例えば初対面でお互い何も知らない状態なのに、自分の要求だけを突き付けるところ。それから、相手の気持ちをまるで考えないところ。勝手な思い込みがあるところ。あとは……良く知らないのでわかりません」
「……それで、全部か?」
「あ、話を聞いてないところ。さっき、良く知らないのでわかりません、と言いました!」
美織は無表情で言い切った。
隆政はといえば、これまた無表情で美織を見つめたまま。
お互い一言も喋らない中、コーヒーを運んできたマスターがそのただならぬ様子に固唾を呑んでいた。
その証拠に手が震え、運んできたカップがスプーンと当たりカチャカチャと音を立てている。
「わかった」
マスターが去っていくのと同時に、隆政が言った。
「そうですか!それは良かった。これからはそういうところを直していくと人間関係がより良くなると思いますよ!頑張って下さい」
美織はホッと胸を撫で下ろし、まだ暖かいコーヒーが飲めることを喜んだ。
しかし、すぐにそうではなかったことに気付かされる。
「今、みおが言ったことを全て直せば結婚を考えてくれるんだな」
「だから……話を聞いてないじゃないですかー……」
頭を抱える美織の前で、自信たっぷりに隆政は言う。
「俺はみおと結婚したい。悪いところがあれば直すし、変わっていきたいと思う。何だって遠慮なく言ってくれ」
「……直すって……今さらそんなの無理だと思いますよ……えっと、27歳でした?そこから変わるなんて到底無理………」
(それに、変わったところで結婚はしませんけど)
言葉と思いで2重に否定した美織に対し、またもや隆政は食い下がる。
「無理じゃない!変われる!君はいい方向に変わろうと努力する人間に、無理だからやめとけ、と吐いて捨てる人間なのか!?そうじゃないだろ?みおはそんな女じゃない筈だ」
(いや、だから、私の何を知っていると??)
そうツッコミを入れそうになり、美織は言葉を飲み込んだ。
後半はおかしいが、前半は完全な正論だった。
変わろうと努力する人に対して言ってはいけない言葉だった、それは隆政が正しい。
その美織の沈黙をどうとらえたのか、畳み掛けるように隆政が押していく。
「もう一度チャンスをくれ。見合いをはじめからとは言わない。まずは俺が変われるように側で見てて欲しいんだ。その上で判断してくれないか?」
「側で……見る??それってどういう……」
「文字通り、だ。確かめてもらいたい……まぁその、彼女的な……」
「何を言って……!?そういえば!あなた、彼女いるじゃないですか!?それも結婚するとか聞きましたよ!それなのに私と結婚したいとか……信じられないっ」
彼女という言葉で我に返った美織は、鬼の形相で隆政を睨み付ける。
だが、次に彼が言った言葉に呆れ全身の力が抜けた。
「そんなことどこで聞いたんだか。その人とは別れたよ。だから、安心していい」
「……安心て……別に興味はないですが……どうして別れたんですか?」
結婚という重大な決断をそんな簡単に翻してしまえるものなのだろうか?
好きだから付き合ったのだろうし、結婚も好きだから決めたのだろう……たぶん。
まぁ、ポンコツの考えなどわからない。
不思議な顔をする美織に隆政は、びっくりするくらい冷たい表情で答えた。
「特に何とも思ってなかったから」
「は?」
「結婚なんて誰としても同じだと思っていたからな。そろそろしないと社会的にどうかと思った時に、たまたま付き合っていたのがその人だったというだけだ。だが、彼女の方にいろいろと問題があってね。だから別れた」
「あなたのその考えで言うと……別に私でなくてもいいのよね?だったらどうぞ他の人と結婚して下さい」
いい加減痛くなってくるこめかみ辺りを押さえながら、なんとかここから無事に帰る事だけを美織は考えている。
「みおは違う。みおだけは特別なんだ。その辺の女と一緒じゃないんだよ」
隆政は先程の表情から一転、前のめりでとても熱く語り出し、美織は椅子の背に追い詰められるように深く腰を引いた。
「い、いいえっ!その辺の女ですよ!間違いなく!なので、どうか放っておいて下さい!」
「……はぁ……そうか、みおがどうしてもまだ結婚に消極的なら仕方ないな」
「えっ!それは!?」
今度は美織が体を乗り出した。
良かった、やっと諦めてくれたのか、と思いコーヒーカップに手をかける。
とにかく喉が乾いてしょうがない。
話も纏まりそうだし、やっとゆっくりコーヒーが飲める。
そう考えたのだが……甘かった!
「うん、まずは俺の女友達(彼女寄りの)として付き合ってもらえないか?」
「は……友……達……?」
新しいワードが飛び出してきて、美織は唖然とした。
「そう。友達として俺の変化を見届けて。友達として付き合って欲しいんだ」
「……友達?あなたと私が?……本当に友達(他人寄りの)ですよね?」
「ああ、友達(彼女寄りの)だ」
そう言って、隆政は商談をうまく纏めた後のようにニッコリと微笑んだ。
(友達……なら、いいか……な……)
『友達』という言葉が持つ曖昧なニュアンスに美織の態度は軟化する。
そしてとうとう……隆政の鬼のようなしつこさに美織が折れ、首を縦に振った。
職場には来ない、余計な連絡はしない、待ち伏せしない、を条件に連絡先も交換して『普通の友達』としてスタートすることにしたのだ。
友達なら実害はないだろう。
と、美織はゆっくりとコーヒーを飲み干した。
ここから嵐のような非日常が始まることも知らずに。
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